「特別企画」 松村牧亜インタビュー (前編)

2011年10月5日、ジャン・ルノワールの1926年のサイレント作品『女優ナナNanaがドライデンシアターで特別上映された。今年はドライデンが一般劇場としてオープンしてから60年目にあたる。本来ジョージ・イーストマン邸のプライベートシアターであったこの劇場で、ロチェスターの市民が始めて観た映画、それが『女優ナナ』だった。当時から残るプリントが使われた今回の特別上映に、ニューヨーク在住の作曲家である松村牧亜氏(以下敬称略)がすばらしいピアノ伴奏を披露してくれた。映画上映前のわずかな時間を割いて、ドライデンブログの取材に快く応じてくれた松村の話を二回にわけてお伝えしたい。


21世紀に無声映画ピアニストになるということ
人はどのようにしてプロの無声映画ピアニストになるのだろうか。例えば、弁士であれば師匠がいてそこで修行するという徒弟制度のようなキャリアモデルが想起されるかもしれないが、伴奏者となると正直想像がわきにくい。
松村の場合、彼女の無声映画伴奏の基礎的なスキルを形作ったものとしては、幼少期に通った音楽教室での即興演奏のトレーニングの存在が大きいという。曲を即興で作り、それを観客の前で演奏する。そうした訓練を日常的に積んだ経験が後に無声映画伴奏の世界に入っていく上で大きな助けになったという。


「小さい頃からヤマハ音楽教室で自作曲を演奏するということをやっていましたので、一応人前でピアノを弾いても問題がない程度のレベルではピアノが弾けていました。また、即興演奏というのもヤマハ音楽教室のプログラムに組み込まれていましたので、ジャズとかの即興演奏のようにコード進行が決まっていてその上でやるというのではなく、完全に自分で、自由に、その場で曲を作っていくというトレーニングを既に受けていたということがありました。」


とはいえ、無声映画を上映する場が世界でも限られている今日において、現代の多くの無声映画ピアニストがそうであるように、松村のキャリアもそこから無声映画と出会い、映画伴奏の世界へといったストレートなものではなく、彼女の当初の関心は映画音楽にあった。東京芸術大学作曲科を卒業後、ニューヨークに渡りジュリアード音楽院の大学院で学んだ松村は鐘ヶ江剛監督作品『Unbroken Dreams of Light』( 2004)や学生映画監督作品への音楽の提供などを通じて映画音楽家としての活動を開始する。またアメリカのみならず日本においてもNHKミニミニ映像大賞グランプリを受賞したわたなべさちよ監督作品『音のおもいで』や2000年に行われた米大統領選挙のNHK報道特別番組、そして東京モーターショーのOPELブースの音楽を担当するなど、その活動を広げている。もちろん即興という点においては求められるスキルも違うであろうが、映像に音をつけるという作業への関心およびその経験が無声映画伴奏家としての松村を生む素地となっていることは言うまでもないだろう。


「長編を一緒にやらせていただいた監督とは半年くらいかけてすごく色んな話をしました。最初はお互いの好きな曲をかけ合ったり、映画とは全然関係ない話もたくさんして。たまたま監督と誕生日が同じだったりもして、作品にたどり着くまでのコミュニケーションがすごくあったので、実際に曲を作り始めるまでに信頼関係が出来ていたのであれはすごく楽しかったです。」


だが、商業映画の世界を志す以上、そこにはアーティストが向き合うジレンマもある。映像製作者と常に十分なコミュニケーションをとれないことや映像に対して自分ではこれだと思う音がなかなか採用されないことに対して松村はもどかしさを感じるようになったし、また自分自身が心血を注いで作曲をしても監督の好みひとつで一瞬にして不採用となってしまう映画製作の世界における監督中心主義という現実にも彼女は向き合わなければならなかった。


「特にコマーシャルのお仕事とかなると十分なコミュニケーションをとる時間もまずないじゃないですか。みなさんまず納期があって『自分のこのコンセプトにあった曲をつけて』みたいなこともありますし。私が一番できなかったのは、すでに映像をもらうときにモックアップと呼ばれるありものの曲がついてくるんです。で、その曲の使用権をとるお金がないからこういう感じの曲をつけてくれと言われるんですね。もちろん生活のためにやろうと思ったらそういう小さなお仕事もとっていかないといけませんから、そうするとどうしてもそうしたお仕事が多くなります。それが私にはちょっと耐えられなかった。こういうことのために映画の仕事をやりたいと思ったんじゃないと思って、映画音楽に対する情熱が消えかけていたんです。」



小津/OZU

そんな折、松村の薄れていた映画音楽への情熱を再燃させることになる出来事がふいに、それもほんの偶然から、訪れる。それが2003年に日本を始め世界各地で行われた小津安二郎の生誕百周年イベントである。現存する小津のサイレント作品16本すべてが上映されることになったこのイベントを通じて、彼女は無声映画伴奏の世界に出会うことになる。


「日本でやるときにフィルムセンターの方が、『もちろん日本では伝統的に弁士をつけるんだけれども、欧米スタイルの、ピアノの生伴奏だけのスタイルもやってみたい』と。それまでは1993年から活動されている柳下美恵さんが無声映画伴奏の第一人者で、当時は彼女くらいしか無声映画伴奏をやられている方がいなかったんです。柳下さん一人だけで16本伴奏するのは大変だということでフィルムセンターの方が声をかけていたひとの中に私の大学の同級生がたまたまいたんです。で、今回小津さんのイベントを大々的にやるにあたって5,6人新しいひとをスカウトしたいということになりまして、彼が私を含めた同期の仲間に声をかけてくれて、それで5人くらいが一気に挑戦しました。それが初めての無声映画伴奏です。」


もちろんこれまで映画音楽をやってきたのだから、映像に合う音をつけるということに関してはある程度できるという自負はあった。とはいえ、初めて聞く無声映画伴奏という言葉は松村の好奇心をかきたてると同時に、彼女に未知のものへのアプローチ方法を模索する必要を感じさせた。


「当時は本当に音楽のことしかやっていなかったので無声映画を観たことがありませんでしたし、小津安二郎って誰?生伴奏って何?という状態でした。けれど、幸運なことに、その時既にニューヨークにいましたので、無声映画に伴奏をつけている方が周りにたくさんいらしたんです。さらに幸運なことには小津さんの回顧展が東京の前にニューヨークのリンカーンセンターで行われて、まるごと同じプログラムをやったんですね。ニューヨークではドナルド・ソーシンさんという、ニューヨークを拠点にMoMAやブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)、サンフランシスコ無声映画祭で常任ピアニストとして活躍されてらっしゃる方がひとりで16本全部弾いたんです。で、これは聴きに行くしかないと思いまして観れる限りのもの、おそらく8割くらいは観に行きました。」


いまでこそ無声映画ピアニストのサークルに参加し、アメリカを中心に活躍する松村であるが、大学・大学院とクラシカルな音楽教育を受けてきた彼女にとって、無声映画伴奏を体験し、そのスキルを習得していくことは新しい世界へと文字通り「飛び込んで」いく過程であるという表現が適切だろう。彼女は終演後のソーシン氏に歩み寄り、自分も日本で小津作品の伴奏をすることになったこと、今回が初めての無声映画伴奏であること、そして伴奏に向けてどういう準備をすればいいか正直分からないことを彼に告げ、助言を求めた。「いま考えるとなんて素人な質問をしてたんだろうと思いますが」と笑いながら振り返る松村だが、その頃の様子を楽しげに語る彼女の言葉には未知の領域を切り拓いていった者だけが伝え得る独特の臨場感があり、彼女が感じたであろう高揚感が聞き手にもびしびしと伝わってくる。


「ドナルドさんがすごく親切に教えてくださったんです。それでなんとかできるかなと自信をつけて日本に帰って弾きました。でも、実際初めて弾く時はどうなることかわからなかったですし、ヤマハ音楽時代に訓練を受けているとはいっても人前での即興演奏なんて十何年もやっていませんでしたから、すごく緊張して大変でした。」


そのようにして松村が生まれ育った場所でもある東京で行われた彼女にとって初めての無声映画伴奏は彼女の音楽家としてのキャリアに新しい側面を加えることになった。



「小さい頃から人前で演奏はしてきていたのですが、実際に演奏してみるとこんなに充実したというか、弾いてる最中にこんなに自分が楽しいことって初めてだなと思いました。本当に二十何年人前で弾いてきて、弾いている自分が一番わくわくしているんです。何がわくわくするかっていうと、ピアノってスクリーンに一番近いところに置かれているじゃないですか。まあ、もちろん、作品を事前にDVDで観ることもありますけど、誰よりも近いところでスクリーンを見上げて弾いていると、小さい画面で観たときと全然違う体験をしているんです。監督さんの息遣いとか意図とかがぐんぐんと伝わってくる気がして――これは勝手な思いこみかもしれないですけど。もちろん監督は亡くなってはいるんですけど、まるで今は亡き小津監督とライブセッションをしているような興奮を感じました。」


それは「まるで自分がこれまでにやってきたことが一点に集約されていくような」感覚であったと松村は振り返る。ヤマハ音楽教室に通った幼少期から音大時代、そしてフリーランスとして映画の仕事をこなしてきたニューヨークでの数年間。その中で培ってきたスキル――ピアノ演奏、即興、作曲、映像に音をつけるという作業――が無声映画伴奏ならすべて、何一つ無駄にすることなく、活かすことができるかもしれない、それができるものが見つかったかもしれないという手ごたえを彼女は感じた。そして、彼女がニューヨークで感じていた映像に対する解釈を自分の音で伝え切れていないというもどかしさは、劇場の中で鍵盤を叩き、それに耳を傾ける観客とのコミュニケーションを感じるうちに次第に晴れていった。


「『ああ、映像に音をつけるって映画音楽だけじゃないんだ』って。しかも、これだと何が正解とかもない。無声映画伴奏ならこの画にはこれだって私が思う音を提示して終わることができる。もちろんDVDリリースのためにちゃんとレコーディングをするというお仕事もありましたが、生で弾く場合には伴奏を録音するわけでもないし、ライブでその日に来てくださったお客さんと共有して終わりです。その一期一会という感覚が私にはしっくりきたんだと思います。」


幸福かつ確かな手ごたえとともにニューヨークへ戻った松村は本格的に無声映画ピアニストとしてのキャリアを開始することを決める。幸いなことに、彼女の暮らすニューヨークではその気になってしらべてみれば毎週のように無声映画の上映がやっていることがわかった。そうした上映に参加し、小津のイベントで知り合ったドナルド・ソーシン氏を始めとする無声映画ピアニストのコミュニティに参加する中で、彼女は無声映画伴奏のスキルを磨いていく。そして彼女の好奇心と行動力、そしてピアニストとしての才能は彼女を新たな場所へと導いていく。2007年に、彼女の熱意を感じたソーシン氏の推薦でイタリアのポルデノーネ無声映画祭で無声映画ピアニストを養成することを目的として行われているマスタークラスに参加することになったのだ。



ポルデノーネ

新たに発見・修復された無声映画が上映される国際映画祭として有名なポルデノーネだが、マスタークラスとはずばりどういったものか。


「マスタークラスでは、初めて観る映画にどうピアノを弾くかということを教えるんです。無声映画の全盛期に活躍した伴奏者は、まったく観たことのない映画に伴奏をつけるということがざらにあったわけです。その時代のピアノ伴奏家がどうやって伴奏をいたのか、無声映画ピアニストの間で「秘伝」と言えるようなかたちで代々伝承されてきたプラクティスがあって、それを今の時代に伝える場がポルデノーネであったと私は理解しています。」


無声映画の最盛期、ヨーロッパやアメリカでは映画館つきのオーケストラが演奏することもあったという。こうしたオーケストラは、当然ストック・ミュージックをもとに演奏するため、ピアノ伴奏のような即興のテクニックは必要ない。ピアノ伴奏者として松村が持つ即興性へのこだわりには、こうした背景もあるのか。


「サイレント期のピアニストは劇場にフラっと行って『ほう、今日の新作はこれか』、と自分が伴奏をする作品をはじめて知り、映画がかかっている一週間のあいだ毎日弾いてるうちに話の筋がだんだん分かってくる、ということもあったようです。」


ポルデノーネでの体験についてはNFCニューズレター(2008年2月-3月号)に松村自身が詳しく書いている。イーストマンハウスで毎週伴奏を務めるフィリップ・カーリも講師の一人だ。彼のアドバイスは、とにかく数多くの無声映画を観ること。映画史研究家としても著名でロチェスターで教鞭を執るカーリは、ひとつのシーンを分析し、そこからその先の話の展開やテンポなどを理詰めで予想していくスタイルを持つと松村は語る。


「彼のクラスで一番最初にやったことも、サンプルの映画として持ってきた『Captain Salvation(1927)』(ジョン・ロバートソン)の冒頭の一フレームだけ見せて、『このフレームから読み取れることを全部言いなさい』と。(笑) やはりサイレント期は映画というメディアが黎明期だったということもあって、ストーリーテリングの手法もシンプルです。だから数をこなしてくると、ある程度パターンが読めてきます。演奏しているなかで、この次どうなるか、まったくわからないということはほとんどなく、『多分この映画がこの時代のこの国の作品でこういう始まり方をしたら、この先はこうかこうかこうかな』と3通りくらいに可能性が絞れるということです。」


他方、ソーシンやスティーブン・ホーンなどのベテラン伴奏者からは「ジャンルの引き出し」を意識して増やして行くことの大切さを教わったという。「バロック時代にコメディ映画があったとしたら」、または「フランス風SF映画をテキサスで撮影したとしたら」と突飛な状況を仮定して演奏するエクササイズなどが印象に残ったようだ。


こうした講師陣のアドバイスにも関わらず、無声映画伴奏にアクシデントはつきものだ。5日間のマスタークラスの修了を飾る土曜日の映画祭公式上映映画の伴奏でも予知せぬハプニングに見舞われた。


「私はドイツの無声映画[『Der Herr des Todes (1926)』ハンス・スタインホフ]で、しかも字幕がドイツ語のまま。それに英語の通訳がつきます。ヘッドフォンをして片方の耳で英語の通訳を聴きつつ、もう一方の耳で自分のピアノを聴く。通訳の人が三秒間くらい間をあけるので、三秒間はなにが起こっているのかわからない。何も弾けないけど何か弾いていないといけない。」


四階席まである巨大な会場テアトロ・ヴェルディでのポルデノーネの公式デビューで第一に試されたのは、トラブルに機敏に対応するスキルだった。ベテラン伴奏者のなかには、「無声映画をやるんだったらフランス語、イタリア語、ドイツ語くらいは読めるといいですね」と無茶なことを言う人もいるそうだが、これも現存する無声映画の多くがヨーロッパのものであることを物語る。サイレント期の日本映画は惜しくも多くが失われているため、日本語ができるアドバンテージはほとんどない、と松村は断言する。


この上映では、同時通訳の問題だけでなく、鍵盤を照らす譜面灯もないまま演奏するという難儀も強いられた。舞台裏の手違いだけでなく、リールの掛け違いで順番が狂ったり、裏返しでかかったり、こうしたトラブルが珍しくないのが映画祭だ。フィルムが途中で切れてしまったとき、真っ暗の中でピアノを弾きつづけるか、映像がない間は弾かないか、こんな判断にもそれぞれの伴奏者の哲学が垣間見れるという。
そして、この日の上映も例外ではなかった。上映の前日までは、担当する映画も決まっていないうえに、作品は事前に観ることができないなか、プログラムから話の概要をつかみ、講師陣からもアドバイスをもらってできるかぎりの準備をするが、


「最後はヒーローとヒロインが結ばれてハッピーエンドになるということだったので、それに向けてすごく盛り上げていたんですよ。それでいよいよ絶体絶命というシーンがあってそれを乗り越え、これで幸せになれるというところで、「ジ・エンド」と来ました。最後のリールが多分紛失しているんですよ。『やられた』と思いましたね。それでもとにかく『ジ・エンド』と出たら終えなきゃいけないんで、ここまでせっかく盛り上げた私のこの苦労は何なんだ、といった感じです。(笑)」


こんな裏話も聞かせてくれたが、松村が今回ドライデンに招待されているのも元を辿ればこのポルデノーネでの演奏で評価を得たからにほかならない。トラブルがあってもイタリアでのデビューは大成功だったようだ。


(つづく)

インタビュー・文責:小川翔太+河原大輔
写真:松村牧亜