Toronto International Film Festival 2011, Day 6: Review

断片的トロント国際映画祭TIFF)報告の第二回。
今回は映画祭六日目にあたる9月13日の上映レポートをお届けします。

早朝にロチェスターを出発し、再びトロントへ向かう。カナダに入り、しばらく車を走らせた後、マクドナルドに立ち寄り、買い損ねていたシャンタル・アッケルマンの『Almayer's Folly』の当日券をオンラインで購入。チケットは一度購入するとキャンセルが効かない規則になってはいるものの他のプログラムへの変更は可能なので、空きが出た場合は上映当日の朝7時から当日券の販売が始まる。(またチケットを持っていなくても上映に来なかった分や埋まらなかった関係者席が上映直前に開放されるので、Rush Lineと呼ばれる空席待ち用の列に並べば見れることもある。)ここ数日チケットの販売サイトをにらみ続けた感じでは、よほどの人気プログラムでない限りは(ベネチアで金獅子賞をとったソクーロフの『Faust』は売り切れのままだった)たいていオンラインで購入可能なようだ。

朝の交通ラッシュに巻き込まれひやひやしながらもなんとか時間通りに一本目の『Almayer's Folly』の上映会場であるBell Lightboxに到着。ベネチアでのお披露目に続き北米プレミアとなった本作品はアッケルマンによる劇映画としては前作『Tomorrow We Live』以来7年ぶりとのことで(その間テレビ用のドキュメンタリーなどを製作していた)、朝一の上映にもかかわらず会場はほぼ埋まっていた。『Almayer's Folly』はジョセフ・コンラッドの同名の処女小説を下敷きに、舞台を原作の19世紀マレーシアから現代のカンボジアに置き換え、旧植民地における自らの白人意識と混血の娘ニナの家出に苛まれるフランス人男性オルメイヤーの物語だ。しかし、上映前に舞台挨拶に立ったアッケルマン(想像していた以上に快活でパワフルなひとだった)はこの作品は原作ものとはいってもかなり脚色が加わっているのであまり意識せずに見てほしい、原作と比較することにあまり意味はないし、それに公開してからずっと原作のことばかり聞かれて少しうんざりしてる、と述べた。

前日のトロント初上映以降、なかなか厳しいレビューも出ていた『Almayer's Folly』だが、映画の冒頭での殺人からニナの導入へといたるまでのゆるやかでありながらもサスペンスに溢れた長回しのトラッキングショットからぐっと映画世界に引き込まれる。ニナと彼女に家を出るように説く男とのジャングルでの会話を収めたシーンや都市の農村部の故郷から都市の寄宿学校へと遣られたニナが路地を歩く姿を捉えるトラッキング・ショットは一様に息をのむほどであり、映画を通してカメラに収められその姿をさまざまに変える川の水面の豊かさはフィルム素材によってのみ可能なテクスチャーを生みだしている。また本作はアッケルマン作品の中でももっともエモーショナルなもののひとつだろう。とりわけ主人公オルメイヤーの感情表現の激しさには驚かされる。「今回は新しいアプローチを試みた」と上映後のQ&Aでアッケルマンが述べたように、登場人物の傍にカメラを据えほとんど執着的なまでに感情の表出を待ち続け、それをストレートに(古典映画の感情表現へのコメンタリーといった形ではなく)記録するスタイルはこれまでにはあまり見られなかったものだ。娘の離反という事実に対峙するオルメイヤーを約7分間にも及ぶ長回しのクローズアップで捉えた映画のエンディングがその試みの典型であろうが、これは同じ実験的な長回しでも、例えば、『ジャンヌ・ディールマン』の有名なエンディングでのそれとは正反対の効果を生んでいる(アッケルマンはどのようなスタイルであれカメラを通して観察し、記録するという意味においては自分にとってはすべて「ドキュメンタリー」であることに変わりはないことを強調していたが)。男性主人公のセンチメンタルな感情の爆発という点に関しては好みが分かれるだろうが、娘の家出というアッケルマン的主題(『News from Home』)にここで父親という視点が導入されたことは興味深い。個人的には、エンディングよりもひとつ前の、砂州の上でニナがオルメイヤーに別れを告げる場面で、彼女とその恋人が乗り込むことになる船がフレームの外から画面後景にゆっくりと滑り込んでくるシーンの演出の素晴らしさを記すことでこの作品を称えたい。



上映終了後、昼食を取り二本目へ。ここで前回に引き続き班別行動。1班は近年アジア映画の新潮流となりつつあるフィリピンのJoseph Israel Labanによるデビュー作『Cuchera』へ。会場はさながらトロントの渋谷交差点とでも呼びたくなるような場所に立つAMCのシネマコンプレックス。近年多くのフィリピン人が貧困などから麻薬の運び屋となり、中国などで検挙、投獄、死刑宣告されるケースが急増している問題を取り扱ったフィクションだ。もちろんフィリピンにおける麻薬問題が現在進行形の重要な社会問題であることに異議を挟むつもりは全くないが、スラム、貧困、麻薬といった第三世界的テーマをポップな暴力表象で味付けした感じは既視感があったし、作品をグローバルな商業サーキットに乗せるためのあからさまなマーケティングが多少鼻につく印象を受けた。運び屋がチューブに入った麻薬を唐辛子と一緒に飲み込むなどして体内のあらゆる場所に隠そうとする様子が何度も繰り返し描写されるが、これも行為そのものの観客へのショック効果がやたらと強調され、ゴアやトーチャー・ポルノといった商業ホラーのサブジャンルとの近接性を感じさせる。もちろん国際映画祭にマイナー映画を文化的差異として承認し(ニュー・ウェイブというお墨付きを与え)、グローバルなマーケットに流通させるという機能的側面がある以上、製作者たちがマーケットに入り込むための「交渉」を行うことは当然ではある。上映後のQ&Aではローカルテレビ局のために制作したドキュメンタリーが元になっているということが繰り返し強調されていたが、ローカルな文化的正統性へのアピールとグローバルな観客にも受容可能なものとするための既成商業ジャンルへの目配せを上手く両立させることは非西洋世界の多くの映画製作者が向きあっている問題であることが窺われた。


2班は今年のカンヌで好評だったという『House of Tolerance』をアート・ギャラリー・オブ・オンタリオ(AGO)併設のジャックマン・ホールで。『Tiresia』で2003年のカンヌ映画祭コンペ部門にノミネートされたベルトラン・ボネロ監督の最新作は前売りの段階でソールド・アウトで、ラッシュラインには当日券を求める人々が列をなしており前評判の高さがうかがわれた。物語は十九世紀の終りから二十世紀初頭にかけての娼館を舞台に、ひとりの娼婦が馴染の客からベッドにくくりつけられナイフで顔を傷つけられるところから始まる。題名が示すように、本作は大胆な音楽の挿入と娼婦達が夜の客たちのために着飾る潤沢なフリルの重なりを通して、放埓でありながら息苦しく閉鎖された館の内部で生きる女たちの忍耐と寛容を描いている。娼婦、暴力、そしてトッド・ブラウニングが『フリークス』で描いたような怪物的な祝祭性を現代的な感覚で描きなおし、観客の十九世紀的な視覚への欲望と冒険心を満足させる野心的な佳作であると言えるだろう。



合流後、ダルデンヌ兄弟の『The Kid with a Bike』へ。カンヌでグランプリを獲得した有名監督の新作ともあって、ハリウッドの新作などがお披露目されるメイン会場のひとつであるウィンター・ガーデン・シアターは観客の穏やかな高揚感に満ちていた。賞レースがあり、どの映画祭に出品するかで映画製作者の間で熾烈な駆け引きが展開されるというヨーロッパの映画祭とは異なり、カンヌとベネチアの後に開催されるトロントにはコンペティション部門が設けられておらず(投票による観客賞だけ)、ヨーロッパで賞を獲得した映画の上映となると受賞を祝う祝賀会のような雰囲気がある。上映前に登場したダルデンヌ兄弟も終始リラックスした様子で挨拶を行った。映画が初めて世界に対して開かれることに対する興奮や製作者と観客との間の緊張感にはやや欠けるところがあるし(上映後のブーイングに遭遇したことはまだ一度もない)、映画祭が商業的成功を収めた現在では巨大な見本市的性格が強くなっている様子のトロント映画祭ではあるが、どこかおおらかでリラックスした雰囲気がある。また大規模ながらもアットホームな雰囲気が保たれているのはオレンジのTシャツに身を包んだたくさんのフレンドリーなボランティアによるところも多いだろう。すべての上映前にはボランティアを称えるショートフィルムが流され、観客から惜しみない拍手が送られる。

作品はというと、公開から時間が経ち、すでに多くの情報が出ているので内容の詳細は避けるが、綿密に設計されたカメラワーク、確かな俳優の演出力、適切な上映時間にまとめられた効率的なストーリーテリングなど、どれをとっても彼らの作品があいかわらず安定して高い水準にあることが証明されたと言えるだろう。むしろ物語世界が彼らのよってあまりに完全に制御され、危うさがあらかじめ入念に取り除かれていることに退屈さを感じてしまいたくなるほどだ。なかでも、父親を強く求めながらも拒否され、児童相談所に預けられた主人公シリルを引き取り、共同生活を始める女性サマンサを少ない科白でドライかつ繊細に演じるセシル・ドゥ・フランスが素晴らしい。上映後のQ&Aではダルデンヌ兄弟が自作のプロモーションで日本を訪れた際に聞いた事例をもとに物語をつくったエピソードを紹介した。また今回初めて音楽を使ったことについても、これまでもポリシーとして排除してきたわけではなく、今回情感を与えるために必要と判断したので、観客になじみがあってエモーショナルなベートーベンを選んだと話した。


しばしの休憩の後、ジップカーのドアが開かなくなるトラブルに見舞われつつも、夜10時からの園子温ヒミズ』の上映のためScotibank Theatreへ。周知の通り、古谷実の傑作漫画の実写化であり、園自身初の原作ものの作品である。また先立って行われたベネチア映画祭で主演の染谷将太二階堂ふみが新人俳優に送られるマストロヤンニ賞を受賞したニュースがトロントにも届けられた。トロント初上映ということもあり、大きめの会場はかなり埋まっていた。311後、脚本を変更し、被災地での撮影を敢行した野心作だが、作品を社会派の枠に落とし込む安易なセンチメンタリズムを拒否するような俳優たちの遊戯的かつ躁的な演技にトロントの観客は受け取り方を考えあぐねているようだった。が、まばらな拍手にこめられた困惑は彼の試みの成功を証明していると言えるだろう。この作品についてはまた別の機会に譲りたいが、とりあえずは、『紀子の食卓』で素晴らしいデビューを飾り、今作でもワンシーンだけ顔を見せている吉高由里子が撮影現場を見て「何かが決壊したような」作品になりそうだと言ったその言葉に賛意を示すにとどめたい。(k)