Love ‘Em and Leave ‘Em (Frank Tuttle, 1926)

ルイーズ・ブルックスがその人生の後半をロチェスターで過ごしたことを知ったのは、この町へ越してきてずいぶんたってからだった。
もちろんアメリカとヨーロッパをまたにかけながらサイレント映画史を鮮やかかつスキャンダラスに彩り、若くしてスクリーンから姿を消したこの神話的女優についてある程度の知識は持ち合わせていたつもりだし、2006年のポルデノーネ無声映画祭でその多くが失われてしまっている彼女の出演作品の回顧上映が行われたように、ここ数年、彼女の「再発見」が続いていることも何となくは知っていた。大学の映画史の授業が行われる教室にはブルックスの神話性を頂点にまで引き上げたG.W.パープストのドイツ無声映画パンドラの箱』(Pandora's Box, 1929)の小さなポスターが飾られ、イーストマン・ハウスではかなりの頻度で彼女の出演作品が上映されてはいたが、それでもアメリカ人のブルックス好きというのもなかなか偏愛に近いものがあるなと思う程度で、それ以上深く調べることもウィキペディアで生い立ちをチェックしたりすることもなかった。それに、まさかそのような女優が、いくら映画産業に縁のある町とはいえ、このロチェスターを晩年というにはいささか長すぎる時間(1956年から1985年まで)を過ごす場所に選ぶとは(町のひとたちには悪いけど)到底思いもしなかったので、ある人物との会話中、何かの拍子でブルックスの話題になったときに、引退後ニューヨークシティで暮らしてた彼女がイーストマン・ハウスの初代キュレーターであったジェイムス・カードに誘われる形でロチェスターに居を移したこと、そこで浴びるように映画を見ながら文章を書き始めたこと、その成果が彼女の素晴らしい自伝になったこと、そしていまではオンタリオ湖へ向かう途中にある美しい墓地に眠っていることを教えられた時はとても驚いたことを覚えている。

Love‘Em and Leave‘Emはその前年にパラマウント・ピクチャーズと契約を結んだブルックスが1926年に出演した6本(そのうち現存するものは4本)の映画のうちの一本であり、当時盛んに作られていた1920年アメリカに花開いた都市文化と新しい女性像を描くフラッパー映画だ。(ちなみにこの映画のプリントを所有しているアーカイブは世界でもイーストマンハウスだけだそうである。)
DVDなどでも入手可能(たぶん)なので物語の詳細を追うことは避けるが、この中でブルックスはニューヨークのデパートで帽子売り場の店員として働く姉妹の妹ジェインを楽しそうに演じている。ジェインには同じデパートで働く姉のイヴリン・ブレント演じるメイムがおり、二人は早くに親を亡くした孤児であることが観客に知らされるのだが、母親を亡くして以来妹の世話を生きがいとしてきたメイムが真面目で地味、恋愛においても保守的なのとは対照的に、ジェインは自由な恋愛と夜毎のパーティを謳歌する自由奔放な女性だ。姉の妹に対する思いをよそに、ジェインはメイムの留守中に彼女の恋人を寝とったり、デパートの女性職員組合の積立金を競馬のダフ屋(個性的な演技を見せているのはオスグッド・パーキンス。『サイコ』のノーマン・ベイツ役で有名なアンソニー・パーキンスのお父さん)にそそのかされて使いこんでしまったり、あげくにお金をなくした罪をメイムに押し付けようとしたりとやりたい放題の悪女ぶりを見せる。そんな妹の破天荒な行動にもかかわらず、メイムは妹の面倒をみるという亡き母との約束を忘れることはできず、ダフ屋の部屋に単身乗り込んで大乱闘の末にお金を奪い返すなどジェインのためにかいがいしく働くのだ(その間にジェインは「あなたのことが心配で一分たりとも楽しめないわ」と言い残して出かけて行った仮装パーティでなんとも楽しそうに踊っているというのに!)

当時の性規範からの大幅な逸脱、ヴァンプとそのファム・ファタール的要素、以後何度と繰り返される長椅子に身を横たえる妖艶な仕草、孤児という人物設定など、ジェインのキャラクターには後年ブルックスが築き上げるスター・イメージのいくつかをすでに垣間見ることができる。ブルックスのパフォーマンスに関する評価は、後に彼女の出演作のなかではより人気の高いBeggars of Life(1928)での虐待を受けていた義父を殺害したのちにホーボーに身を転じる主人公や『パンドラの箱』でのあまりにも有名なルルのキャラクターを通してリアリズム的な「内面の深み」(のようなもの)を獲得していった、またその「深み」によって演技力が増したと、というのが一般的なものだと思う。そうした点から見ると、本作では姉妹間の葛藤や孤児であることの説話的意味などが掘り下げられることはなく、ましてやジェインの自由奔放なフラッパー生活の背景(またはその深層)が説明されるわけでもないので、ジェーンのキャラクターは軽薄なフラッパーという枠内に安全にとどまっているようにも見える。しかし、いささか安易ながら、そのようなジェーンの深みのなさ、苦悩や葛藤の欠如こそがローリング・トゥウェンティーズと呼ばれた狂騒の20年代のジャンル映画と後の大恐慌前後から主流になるリアリズム映画を隔てるものだと考えれば、ブルックスはそのモードの差異に敏感に反応し、見事に順応して見せたともいえるのではないだろうか。とまれ、人生の悩みなんてものは姉に任せて、ひたすらに欲望に忠実であろうとする本作でのジェーンの底抜けの屈託のなさ(とその身体的な表明としてのダンス)は初期ブルックス映画の大きな魅力となっている。(k)

(2010年11月16日上映)