West Side Story (Robert Wise, 1961)


マイナス18度の極寒の夜にRobert Wise監督Leonard Steinberg作曲による大傑作『West Side Story』(1961)を観た。

この映画は1957年にブロードウェイで大ヒットしたミュージカルを映画化したもの。劇場の臨場感を再現するかのように、Overtureがゆうに5分くらいは続く。この間スクリーンにはマンハッタンを抽象化したシンボルの静止画しか映し出されないので、自然と協奏曲に注意がうつり、視覚中心になりがちな映画の見方を正されているようだ。まだ映画は始まってはいないのに、この序章の音楽だけで、ずいぶん前にテレビで見たときの熱い感覚がよみがえてくる。この映画についてはすでに多くのことが書かれているが、ここでは主に声やアクセントについて書いてみる。

Lower Manhattanのスラム、なにもすることがなくたむろする不良集団。彼らはJets とSharks、つまりイタリア系(イタリアと名指しされていないが、いわゆるWASPではないことは隠喩されている)とプエルトリコのギャングにわかれてケンカにあけくれている。こうした物語の概要は、じつはたった五分ほどのダンスシークエンスで非常に効率よく紹介される。躍動感あふれる体のうごき。つねに集団全体の鼓動をつたえるようにリズミカルに指を鳴らしながら、一人から二人へ、また二人から四人へと彼らの鼓動が徐所にシンクロナイズされていく。音楽のピッチが少し早くなったと思うと、JetsにとってかわってSharksのメンバーが登場する。彼らも同じように指を鳴らすが、彼らのテンポは南米のダンスに合わせたようにリズムが早く、弾みもある。
この映画はこれまで何度か日本のテレビで放送されたのを観ただけだった。今回アメリカの映画館で観ていて、ミュージカル映画の表現の層が厚いことに感心した。映像のリズムや波のようにうちよせるオーケストラはもちろんのこと、アクセントと声質についてまで細かく演出が行き届いている。Jetsのメンバーは多くがアメリカ生まれの二世、そしてプエルトリコのSharksはいわゆる移民一世。Sharksのメンバーを演じる役者は必ずしも南米系ではないが、会話や歌はやや極端なスペイン語なまりの英語でなされる。Jetsのメンバーは労働者階級の訛り、今だったらブルックリン訛りとでも言うようなアクセントだ。

とりわけ面白いのはこの映画でロミオとジュリエットにあたるメインの二人、つまりイタリア系のトニーとプエルトリコ系のマリアがアクセントの面でも区別されている点かもしれない。トニーには軽い訛りしかなく、スラングを使うことはない。彼はPretty faceと揶揄される純真なキャラクターだ。マリアを演じるナタリー・ウッドスペイン語訛りは徹底しているが、ジェームズ・ディーン映画のなかで典型的なアメリカの若者を演じたりとあまりにラテン系とは異なるイメージが染み込んだ役者でもあることもあって、彼女の訛りにはどうしても少し尖ったものを感じてしまう。だがマリアという役柄の演出には、訛りよりも声質のほうが重要な役割をはたしている。マリアはいろいろな意味でほかのプエルトリコ住民と区別化されている。第一にはこの話は現代版ロミオとジュリエットであり、彼女とトニーは集団のロジックに収集されることがない個人としての愛を追求しなければならない。この二人は一身に冷戦期アメリカの自由というものを背負わされているとも言えるのではないか。とすると、マリアがおそらく唯一のソプラノであり、プエルトリコのアルトの女性郡から突出していることや、ほかのみなが半音落としたような歌い方(Cabaretやディナーショーで聞けるような語りかけるようなスタイル)が基本なのに対して、彼女とトニーだけが常にクラシカルな発声をするも納得がいく。
West Side Storyアメリカの階級や人種、そして性差をめぐる対立や葛藤をドラマツルギーやダンスを通して細かく描き出している。声質ということで考えると、男声女声だけでなくカストラートまでしっかりいることに気づく。もっとも実際にはカストラート(女声を持つ男性)の逆で、ギャングの輪に入りたくても阻害される男っ気のある女だが。彼女はつねに物語を左右する力を持つ立場にいるのだが、クライマックスではトニーにはっきりと「女らしくしろ」とつきはなされ、ヒーローとヒロインの間の誤解を解くことなく退場してしまう。

現代的な視点で見てしまうと、Sharksのリーダーであるベルナルドを演じるギリシャ系の役者ジョージ・チャキリスやマリアのメイクがあきらかに肌の色の濃さを強調していることに嫌気がさしてしまう。なにしろミュージカル映画の元祖『ジャズシンガー』では、ユダヤ人の歌手が顔に墨を塗って黒人の歌を歌うという内容で、黒人の動作やアクセントを茶化して真似る、奴隷時代から続くボードビルと呼ばれる演芸を継承したものだったのだ。もちろんいわゆるcross racial(異民族)キャスティングが必ずしも問題ではないし、この映画が提示するアイデンティティの問題は肌の色という一点でとらえることができない多層性を持つ。なにしろベルナルドの恋人を演じるリタ・モレノプエルトリコ系の女優として有名だが、彼女の登用にまったくcross racialな側面がないかといえば、それも正確ではない。彼女の歌声はなんと二人の歌手が吹きかえているが、Mami Nixon とBetty Warrelというアングロサクソンの苗字を持つ二人の吹き替え歌手が奏でるラテン系の歌や訛りは、ウッドのラテン訛りと同等の性質をもつ(参照)。またモレノもウッドとチャキリス同様に映画畑の人間であり、ブロードウェイから登用されたほかのSharksのメンバーとは区別されていることも重要だ。ミュージカルという総合芸術のなかでは自己完結型の個人という考え方は適さないのかもしれない。一人ひとりの気持ちを表現した歌はかならず集団の歌へと繋がるし、冷戦期アメリカの「自由個人」を体言したようなマリアの歌声は複数の人間によるものなのだ。ちなみにMami Nixonはモレノだけでなくウッドの歌もかぶせている。そのため、クライマックスで流れる有名な「Tonight」メドレーではNixon一人でウッドとモレノのデュエットを歌うというとても奇妙な状況をつくりだす。

West Side Storyの複雑な声やアクセントの演出はミュージカル映画というものの奥の深さを提示する。もっともこの映画は1930年代から続いたアメリカのミュージカル映画の流行がようやく終わるころに登場した異端な作品なので典型的なミュージカル映画とはいえない。最盛期のミュージカルの多くがMGMという巨大スタジオから排出されたのに対して、West Side StoryはMirisch Companyという少数精鋭の制作会社(『大脱走』や『紳士は金髪がお好き』など)とUnited Artists配給の作品なので、すでに最盛期のミュージカルとは距離を保ったオマージュだともいえる。ロミオとジュリエットというクラシカルな物語をギャング抗争や異文化の衝突という生身のあるセッティングに移した点では、ユートピア的な幻影の世界を作り出していた例えばVincent Minnelli のようなミュージカルの巨匠の作品とはずいぶん性質が異なり、ある意味ではヌーベルバーグやニュー・ハリウッドのような映画の伝統を捉えなおす運動の一環として考えられる作品だ。(SO)