Cluny Brown (Ernst Lubitch, 1946)

                     

ロチェスターでもいよいよ雪がとけて、春が近くなってきました。
東北でも早く暖かくなって避難所での生活が楽になるといいのですが。

今日の映画は戦争という重い時代背景のなか痛烈ながらヒューマニズムに富んだコメディ
を作り続けた名匠Ernst Lubitchの作品。
この映画は彼の戦後初の作品、そして遺作ともなった。

日本語での紹介があまりみつからないため、まずは内容の要約から。

1938年のロンドン。
カクテル・パーティを前にして流しが詰まってしまった紳士の家に迷い込んだチェコの教授(Charles Boyer)に配管工の姪(Jennifer Jones)。「場違い」がキーワードのこの映画のヒーローとヒロインの場違いな出会いである。Cluny Brownという変った名前を名乗るヒロインはとても労働者階級には見えないファッショナブルな格好で、しかし大きなハンマーを豪快にふりまわして見事に流しを直してしまう。いかにも奔放な振る舞いをみせる美人のClunyは誘われるままにカクテルで酔いつぶれてしまうが、しつけの厳しい叔父の「場をわきまえろ」という口癖についてこぼす。すかさず口のたつ教授は、自分の属する「場」なんて相性の問題だということを説明するが、物語を通してたびたび登場する「リスに餌をやるやつもいれば餌にリスをあたえるやつもいる」という転倒した例を自慢気に語って聞かせる。他人の家で「場をわきまえず」に酔ってしまったClunyはその後Carmel卿の大屋敷に奉公に出されてしまう。他方、軟派な教授はじつは反ナチス知識人として亡命してきたBelinskiたる人物だと、パーティにきていたCarmel卿の息子によって明かされ、BelinskiもClunyの仕える大屋敷に居候することになる。

Cluny に惚れ込んだBelinskiだが、それとは気づかないClunyは村の薬剤師と恋におちてしまう。お世辞にも好青年とは言えない薬剤師のWilsonは「場をわきまえる」ことに徹底して生きているような男で、いわばこの映画の揶揄すること全般の象徴のような人物だ。彼女に感想を聞かれたBelinskiはきっぱりと「大波にゆられながらも勇敢に航路をさがす小船もあれば、風も波もない港にエンジンを切って碇を下ろしたタンカーもある。Wilsonは後者だ」と暗に否定的な意見を示すが、彼女は見当違いにもこれを好意的な意見だと理解して顔をほころばす。Lubitchらしい「すれ違いギャグ」の名場面だが、孤児として育ったという彼女が安定感を求める心境とそれをまったく理解できずに空回りをする教授の思考を対比するLubitchには、とても深い洞察力を感じる。結局婚約直前に「場をわきまえず」に勇ましく配水管を直してしまったClunyはWilsonとの結婚を棒にふり、急ピッチで物語はハッピーエンドに進んでいく。

今日のスクリーニングはLabor Seriesという外部のシリーズの一環だ。春季と秋季に地元の労働組合が企画するシリーズだが、労働問題のドキュメンタリーやフィクションばかりでなく今回のようなクラシックや昨年上映されたようなFrederick Wiseman の実験的な記録映画Balletなどをピックアップしているのがおもしろい。今日の映画には、差し迫る戦争の脅威にまったく鈍感に暮らすイギリス市民への皮肉やドイツからハリウッドに移住したLubitchの自画像ともいえる亡命者の教授など、とても多くの伏線が張り巡らされているが、「労働」あるいは「階級」という視点から見るとまた別の側面が浮かび上がる。たとえばClunyがお屋敷に召使として到着する際、電車の中で意気投合した紳士に送迎してもらうが、その紳士の友達と勘違いしたCarmel卿夫妻は彼女をとても親切にあたたかく迎える。こうした、「すれ違い」や「勘違い」によるギャグは、お屋敷を舞台にした(18世紀フランスのボーマルシェなどの喜劇の流れを汲む)映画には定番だ。こうしたギャグには少なからず階級意識への批判が隠れていることが多く、この場面でも屋敷への登場の仕方次第で扱いが大きく異なってしまう階級制度のばかばかしさが強調されている。しかし、彼女が召使だと気がついたときのCarmel卿夫妻の気まずそうな態度の変容ぶりと動揺と恥じらいが混ざるClunyの反応からはコメディよりは「場をわきまえる」ことを鉄則とした階級意識の非人間的な悲しさを訴えた社会派のメッセージをも感じる。
(2011年3月20日上映) S.O