What Price Hollywood? (George Cukor, 1932)

先月から始まった脚本家ローランド・ブラウン特集のトリを飾るのは、1932年にパラマウントからRKOに移ったジョージ・キューカーが移籍第一作として撮った作品『栄光のハリウッド』What Price Hollywood?。本作品のプロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックが1937年にウィリアム・ウェルマンを起用して製作した『スタア誕生』A Star Is Bornの元になったとされる、ひとりの女優の人生を通じて夢の工場ハリウッドの理想と現実を描いた作品だ。ちなみに『スタア誕生』は1954年にはセルズニックとキューカーのコンビによってシュディ・ガーランド主演でリメイクされ、70年代の再リメイクを経て、つい最近ではビヨンセ主演クリント・イーストウッド監督での製作が噂されたのが記憶に新しいところ。また、脚本にはローランド・ブラウンを含め計四名がクレジットされているが、上映前の説明によれば、一度完成した脚本で撮影が既に開始していたものの、脚本の練り直しの必要を感じた製作陣が急きょ助っ人として呼んだ二名のうちのひとりがブラウンだとのこと。

当時RKOのプロデューサーだったセルズニックは、ハリウッド女優を夢見るウェイトレスの主人公メアリー・エバンス役に当時トーキーの到来とともにキャリアが低迷していたサイレント・スターのクララ・バウを起用することで本作を彼女のカムバック作品にしようと目論んでいたらしい。しかしバウのアルコール問題などもありうまくいかず、また、そうこうしているうちにバウがフォックス社と二本契約を結んでしまたので断念し、代わりにMGMからRKOに移籍してきたばかりの女優コンスタンス・ベネットが主人公を演じることになった(ちなみにバウはこのフォックス社との契約でCall Her SavageとHoop-Laに主演したのを最後に引退)。主人公を見出しショービズ界での後見人的な立場を担う映画監督マックス・ケアリー役には自身が監督でもあるローウェル・シャーマン。D.W.グリフィスの1920年の作品『東への道』Way Down Eastなどで見せたようなプレイボーイ役のイメージが強いシャーマンだったが、この作品では一味違う演技をみせており、スターダムを駆け上がる主人公とは反比例するかのようにキャリアを破滅させていくスタジオ監督という物語上重要な役に存在感を与えている。

不道徳とスキャンダルが蔓延るハリウッドの内幕を描いたプレ・コード映画(狭義にはハリウッドの自主検閲制度であるプロダクション・コードが制定された1930年から本格施行される34年までに作られた映画のこと。サイレント時代から映画が描く道徳的退廃、性的ほのめかしと当時のアメリカ社会における映画文化への道徳的抑圧との激しいひしめき合いが特徴とされる)と聞けばセンセーショナルなものを期待してしまうかもしれないが、本作の物語は道徳的抑制が適度に効いたつとめて健全なものとなっている――すくなくとも表面上は。主人公はハリウッドでの夢をつかみ、健全かつ健康な青年との結婚、出産という社会規範が要請する「女のしあわせ」も手に入れ、夫婦仲の悪化とスキャンダルにもめげず、最後には家族の幸せを取り戻すという安全な(しかしいささかとってつけたような)ハッピーエンディングまでしっかりと用意されている。これには制定されたばかりのプロダクション・コードの影響もあるのかもしれないが、むしろ、コンスタンス・ベネットという主演女優によるところが大きいのではないだろうか。セルズニックが望んだ通りクララ・バウがキャスティングされていればスクリーンの内外から生み出される彼女のセクシーでスキャンダラスかつ退廃的なスター・イメージが観客による主人公の役の解釈を複雑にしたかもしれない(実際、バウが同時期にフォックスで主演したCall Her SavageとHoop-Laは典型的なプレ・コード映画と説明されることが多い)。しかし、サイレント時代のキャリアがほとんどなくイメージ的にはデオドラントなベネットが主演することで、本作品はサイレント時代との連続性というよりはむしろ断絶を強調しているように感じさせる。

とはいえ、プレ・コード期独特のコード化された道徳的・性的倒錯が皆無ということはもちろんなく、それらはハリウッドのダークサイドを背負い込む役どころであるケアリーに集中している。ケアリーが堕落していくのはアルコールのせいだとの説明が形式的にはされるものの、プールサイドで彼が黒人の女性メイドの手を引いてプールに飛び込んだり、主人公夫婦のアパートに夜中に泥酔して立ち寄ったあげく新聞紙に火をつけて放火しようとするシーンは、彼の社会的逸脱が飲酒という行為だけでは収まりのつかないものであることを示しているように見える。(すくなくとも異人種とプールに飛び込むというのは映画のシーンとしては当時としてはかなりきわどかったのではと思ったのだが、詳しいところはわからない。)また男性キャラクターが高齢なのに理由なく(死別したとか説明されずに)独身という設定は同性愛者であることをほのめかす一般的な手法なので、ケアリーのカフェや映画のプレミア会場での過剰に軟派な身振りと合わせて、彼がゲイであるとする解釈も妥当なように思われる。こうしたケアリーの存在と社会的逸脱は、物語が進むにつれて、主人公夫婦の仲を引き裂くものとして機能し始め(夫婦は別居し、夫は物語の中心から追いやられ、代わりに主人公とケアリーの絆というプロットが中心化し始める。異性愛恋愛というメイン・プロットの危機)、最終的にはケアリーの物語世界からの排除が主人公カップルのハッピーエンドを可能にする唯一の方法と説明される。その意味においてケアリーの自殺が物語のクライマックスであり、彼が自殺するシーンでの、多重露光など当時最先端の特殊効果とノイズのようなサウンドを駆使したスラヴコ・ヴォルカピッチによる実験的な編集は見どころだ。

この日のお客さんの入りがよかったのは、作品の面白さもさることながら、なんといってもナイトレート・プリントでの上映だったからだろう。可燃性フィルムの上映ということで開演前には「万が一の火災に備えて、前方後方5か所の出口がございます」と機内アナウンス風のお知らせで会場を盛り上げてました。上映されたものはオリジナル・プリントではないものの、1940年代にカメラ・ネガティブから作られたヴィンテージ・プリントで(と言ってたと思いますが専門用語が多くてあやふや)、セルズニックの個人コレクションだったとても貴重なものだとのこと。(k)

(2011年4月5日上映)