「特別企画」 ジョナス・メカス特集 パート4 「インタビュー (前編)」

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 ジョナス・メカスにはロチェスター滞在の機会にインタビューしたいことを前もって申し入れ、前向きな返事を得てはいたものの、彼のあまりに過密な滞在スケジュールのためにインタビューのための時間は確保できていなかった。もし滞在中空き時間ができればそのうちの少しだけでもわたしたちのインタビューのために割いてくれるとうれしい、そのときにはどのタイミングでもかまわないので連絡してほしい、という旨のメールを送ってはいたものの、彼からは「着いてから決めることにするよ」という連絡とともに「即興よ永遠なれ!(Long live improvisation!)」というメッセージが送られてきていただけで、細かいことは何も決まっていなかった。

 思えば、当初上映予定になかった『WTC』が4月8日の夜に急きょ上映されることになり、関係者とのディナーを終えたメカスがQ&Aに登場するということがアナウンスされたあたりから彼の「即興」は始まっていたのかもしれない。Q&A終了後、わたしたちはメカスに歩み寄り、インタビューの依頼をしたこと者であることを告げた。彼は「ああ、覚えてるよ」と言う。願わくば滞在中どこかのタイミングで会って話を聞くことはできないだろうかとわたしたちが聞くと、じゃあこのあとはどうだろうと彼は答え、私は夜型の人間だから時間が遅くなるのは気にしないよと付け加えた。わたしたちは、それまでの杞憂がうそのように、物事があまりにスムーズに決まってしまったことに多少当惑しつつ(即興よ永遠なれ!)、もちろんそれで構わないと了解した。イーストマン・ハウスのディレクターであるアンソニー・バノンの提案でわたしたちはダウンタウンにあるハイアットホテルのバーで待ち合わせることになり、そこで話を聞くことができた。

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  ――今回の旅はイーストマン・ハウスでの授賞式のためだけですか。それとも上映ツアーか何かの一環ですか。


メカス: いや、ここだけだ。私は創作者(maker)で何かを作っているのが好きだ。旅をするのは好きじゃない。本当に必要なときにしか旅はしないんだ。それに今回はアンソニーイーストマンハウスのひとたちをがっかりさせたくないと思ってね。


  ――ロチェスターまで来てくれてうれしいです。


メカス: それに休息が必要だった。ここ数カ月すごく忙しかったからね、少し休みたかったんだ。


  ――わたしたちは映画制作ではありませんが大学で映画について学ぶ学生です。あなたもクーパーユニオンで教えられていたんですよね。


メカス:そうだ。一学期だけだけどね。それに教えていたという感覚はないんだ。わたしが関心があるテーマに生徒たちといっしょに取り組んだというだけだ。学んでいたのは私の方だとも言えるね。学校で教えたのは計四回だ。ひとつはMIT(マサチューセッツ工科大学)で日記映画の形式を発展させることを試みた。別の学期にNYU(ニューヨーク大学)でやったのは拡張映画(expanded cinema)の可能性を探求するというもので、ニュー・スクールではサンフランシスコとニューヨークの、つまり西海岸と東海岸アヴァンギャルド映画を比較した。


  ――聞くだけでとてもおもしろそうです。


メカス: そしてクーパーユニオンでは形式と内容が技術ととりもつ関係、とくに新しい映像技術との関係について取り組んだ。とてもいい体験だったよ。


  ――その他にも、NYUとハーヴァード大学ニューヨーク州立大学バッファロー校を映画制作者者が巡回して講義を持つシリーズに参加されたこともありましたよね。


メカス: そういえばそういうのもあった。ただしあれはスポンサーつきのツアーに組み込まれただけだがね。全部で20回くらいのセッションをやって、基本的にはわたしひとりでやったが、他の映像作家を連れて行くこともあったよ。


  ――あなたは、以前別のインタビューで、アヴァンギャルド映画制作が陥りつつあるアカデミシズム化について話されていました。自身が実際に学校で教えられたときに、そういうことへの危機感のようなものが頭にあったんでしょうか。


メカス: いや、それとは関係なく、自分がやったことはいたってシンプルなことだ。まず、アンソロジー・フィルム・アーカイブが持っているD.W.グリフィスのカメラマンだったビリー・ビッツァーが彼の息子を被写体にカメラのテストをしているフッテージ――これはもっとも最初期のホーム・ムービーといえるものだが――を生徒に見せる。つぎに、これもアンソロジーが持ってるものだが、そのほとんどが静止画から構成されたオスカー・フィッシンガーの『ミュンヘン―ベルリン徒歩紀行』を見せ、それから徐々に1960年代や70年代のより複雑な映画を見せていくんだ。映画を見せ、それについて議論する。いたってシンプルでアカデミーとは関係のないことだよ。とても実際的な映画づくりのことだ。


  ――つまり、生徒をトレーニングし、映画制作者として育てるという意図はあまりなかったと。


メカス: ない。そんなつもりはないよ。意見を交換して私自身の進展具合を確かめる、そして生徒たちにも彼らの進展具合を確かめる機会になればいいと思っただけだ。


≪ここでアンソニー・バノンが飲み物の申し出をしてくれる。礼をのべ、銘柄は何でもかまわないのでなにか軽めのビールをいただけるとうれしい、とお願いする。メカスは「すごく軽いビールがいいのならステラだな」といいながらわたしたちが到着する前に注文していた白ワインを飲んでいる。≫


  ――好きな飲み物はありますか。


メカス: これ一つだけというのはないな。酒に限らず、何かを一つに絞るということはしないんだ。


  ――あなたらしいですね。


メカス: ビール、ウィスキー、ワインがあればたいていはワインを飲むね。そのあとにウィスキーを飲むこともある。ウィスキーはスコッチに限る。


  ――スコッチがお好きなんですね。


メカス: ああ。それか、フンダドール。ヘミングウェイが好きだったブランデーだ。


  ――ヘミングウェイといえば、あなたは文筆家、詩人でもあります。


メカス: 私の詩集はこれまでに三冊日本語に翻訳されている。日本にも全部で六回ほど行った。端から端まで、沖縄から北海道まで旅行したよ。友だちもたくさんいる。ほとんどは詩人かフィルムメイカーだが。詩集以外も含めると全部で六冊か。新刊がもうすぐ、たぶんひと月かふた月以内に出るはずだ。私の序文が届くのを待っているんだ。ロチェスターへ来る列車の中で書き終えるつもりだったんだが、いかんせん混んでてね、書くなんてどころじゃなかったよ。


  ――帰りの列車ではぜひ。


メカス: ああ、そうなればいい。


  ――今夜上映された『WTC』を制作されたきっかけがあれば簡単に教えていただけますか。


メカス: あるとき自分の撮ってきたフィルムが色あせてきていることに気がついた。何か作品にしてしまわなければと思い立ち、よく見てみると多くのフィルムにワールド・トレード・センターが何気なく写っている。それが始まりだ。


  ――いまとは違うニューヨークの雰囲気が伝わってくるすばらしい映画でした。今夜、偶然にも、最初に上映されたのがルディ・バークハートの『The Climate of New York』で、最後にあなたの『WTC』が上映されました。あなたの新作がニューヨークを舞台にした都市映画の系譜に連なるものであることを感じさせます。


メカス: アルベルト・カヴァルカンティも付け加えたい。彼は『伯林 大都会交響楽』のウォルター・ルットマンと同時代の南米出身の映像作家*1で、彼はパリを撮った。『Rien Que les Heures』。15分ほどの作品で、ルットマンとは趣がだいぶ異なるがね。


  ――ピアノの音楽もとても印象的でした。


メカス: あれは友人の若いアーティストが即興で弾いたものを録音したんだ。アンソロジーでチャリティ・コンサートをやったときにフィリップ・グラスがピアノを持ち込んだんだが、そのあとしばらく引き取りにこなかったからずっと置きっぱなしになっていたんだ。あの即興はそのピアノで弾いたものだ。ただ、今夜の上映はちょっとだけ音が大きかったがね。


  ――たしかに。とはいえとても感動的なスコアでした。『WTC』の音楽が決まっていく経緯をお聞きすると、あなたが常にアーティストや詩人、音楽家など幅広いひとたちとの交流があることを改めて感じさせられます。


メカス: 交流といってもおおげさなものではないんだ。肩肘を張らずに、気楽に集まっていたというだけのことだ。


≪ここで注文したビールが届く。乾杯をして話を続ける。≫


  ――さて、周知のとおり、あなたはアンソロジー・フィルム・アーカイヴスとフィルムメーカーズ・コープの設立者であります。今夜の上映後にも、自身が過去に撮影したフィルムを発掘することについてお話になってました。あなたは新旧を問わずあらゆるメディアに肯定的だとは思いますが、映像というものの現在、たとえばフィルムによるイメージやビデオのそれなどについてもうすこしお話いただけますか。


メカス: ビデオやインターネット配信が登場し、多様なアウトプットができるようになったことはすべてポジティブですばらしいことだと思う。ただそれに関しては言うべきことが山のようにありすぎる。あまりに多様でひとくくりにしゃべることはできない。あまりに多い。


≪上映に来ていた男がやってきて、自己紹介を始める。昔ニューヨークに住んでいたことがあり、その頃アンソロジーアーカイブスへよく通ったのだと言う。ウェイトレスが追加の注文を取りに来る。メカスは同じワインをもう一杯もらおうと言い、男のいささか長めの自己紹介に耳を傾けている。≫


  ――アンソロジーはフィルム・アーカイブでもあり、上映施設でもあります。あなたは現在どの程度上映作品の選定に関わっていますか。


メカス: 毎日日替わりで六本から七本上映している。劇場は二つだ。アンソロジーでの上映作品の選定はチーム作業でやっている。フィルムメーカーズ・シネマテークのときはわりと自分ひとりでやっていたが、アンソロジーができてからはそういうこともなくなった。メインプログラムの「エッセンシャル・シネマ・セレクション」の選定には五人が携わっていて、誰かひとりがやっているということはないんだ。また、アンソロジーでは多様なシリーズの企画のために国籍も多様なさまざまなキュレーターたちと仕事をしてきたし、さらに細部を詰めて企画としてまとめる係のひともいる。


  ――アンソロジーは最初ジョセフ・パップのパブリック・シアターのところにあったんですよね。


メカス: そうだ。そこがアンソロジーが1970年代にオープンしたところだ。自分たちのためのスペースを確保して、そこに特別な、本当に特別な、劇場を造ったんだ。ピーター・クーベルカがデザインしてね。それから四年後に建物が壊されることになり、他へ移らなければいけなくなった。その上映スペースはいまはもう現存していないんだ。アンソロジーはそのあとソーホーのウースター通り80番地へ移った。


  ――クーベルカと言えば、彼もウィーンのオーストリア映画博物館で映画上映のキュレーションをしていましたね。それぞれアメリカとヨーロッパでキュレーションをするという体験にはどんな違いが・・・


≪とても聞きたかった質問だがここでラインヒルド・スタイングローヴァーが乱入して中断される。彼女はイーストマン音楽学校でドイツ映画について研究しており、サイレント映画のための伴奏の授業も受け持ったことがあるそうだ。今夜の主役であるメカスの周りが静まることはなさそうだ。≫
  

  ――2007年にインターネット上で発表された日記映画についてお伺いします。


メカス: あれは映画じゃない。プロジェクトだ。私のウェブサイトで全て見ることができるよ。365日分すべて。一日も欠かさずアップロードし続けた。あんなプロジェクトは二度とやらないよ!あれは思った以上に大変だった。最初は何かの冗談かと思っていたんだが「いえ、毎日5分から10分のクリップをアップロードしてください」というもんだからね・・・。それにインターネット上で発表するとなるとカメラから撮影したフッテージを取り出せばおしまいというわけにもいかない。オンライン用のファイルにするまでの過程がいくつもあるしね。とても困難な挑戦だった。でもやりきったよ!


  ――その一年間というのは他の年と比べてニューヨークにいることが多かったんでしょうか。


メカス: とんでもない。旅にも出たよ。その一年間だけでおそらく十回は出たはずだ。私と息子を含めてわれわれはチームで――自分たちのことを「ギャング」と呼んでるんだがね――旅に出るんだ。旅に出たときもホテルの部屋で作業して、なんとか間に合わせてたよ。日付が変わるまでには新しいフッテージが必ずサイト上にアップロードされてたんだ。


  ――連続上映という点でいえばホリス・フランプトンも『Magellan』で毎日上映するというプロジェクトに取り組んだことがありました。ロバート・ロンゴにもフランプトンの作品から名をとった「マゼラン・シリーズ」という毎日ドローイングを発表するというプロジェクトがありました。


メカス: ああ、いまでは似たようなプロジェクトがたくさんある。フランプトンのは知ってるよ。ただしあれは長時間撮影したものを分割して上映するというものだから同じものとはいえないし、それに方法としてはずっと簡単さ!私のプロジェクトでは、開始して一週間ほどで日本も含めていろんなところからたくさんの反響があった。私と同じように毎日映画をつくることを始めた人たちもいた。私のライバルになったというわけだ。日本には私のサイトのすべてのフッテージの索引を作り、すべての音声を文字に起こして、さらに誰かがフッテージの中で言及されればその人物の情報をつけるということまでやったひとがいるんだ。いまでもまだやってくれているはずだがね、サイト上のすべての情報を細かく追ってくれるなんてすばらしいことだよ。たしかどこかの大学で教えてるはずだが、私のファンなんだ。*2


  ――毎日の撮影に臨まれるにあたってテーマを決めるなんてことはありましたか。


メカス: 明日何が起こるかなんてどうして分かるというんだい!


  ――つまり即興だったと。


メカス: それも違う。人生というのは・・・


≪話が核心へ及ぼうとしたところへウェイトレスが追加の注文をとりにテーブルへやってくる。メカスは「そうだな、ビールに移ろうか」と言いながら揃えているビールの種類を訊ね、しばらく悩んだあと、やはり今日はワインでいくことにしようと言って同じ白ワインのグラス注文する。≫


メカス: 人生は即興ではないんだ。私は明日に向けて備えるということは決してしない。明日はいずれやってきて、明日の私というものをかたち作る。それについて何か計画しても仕様がないことだ。私がカメラを回しているとき、なぜ自分がカメラのスイッチを入れたのかなんてわかりっこないんだよ。つまりはこういうことだ。一日というのは24時間だ。一時間は60分で、一分は60秒。ある年のある日に、私はたった15秒しか撮影しなかったとしよう。なぜ24時間撮影しなかったのか。なぜその15秒間だったのか。そんなことを問うなんて考えてみれば馬鹿げてるがね!撮影したということはなにか理由があったんだろう。しかし、なぜ私がその15秒間を撮影して残りの23時間と59分と45秒でなかったのかなんてことはわからないんだよ。だから私がなぜ映画を作るのかということには答えはない。私はただ反応しているだけだ。いまもここにカメラはあるが撮影はしていない。それは私を撮影に駆り立てる「何か」がこの場にはないからだ。しかし、その「何か」は起こるかもしれない。起こり得るんだ。


  ――そのような心境は2007年の日記プロジェクトのときにも変わりませんでしたか。つまり、カメラを回さなければというような意識が生まれることはなかったのでしょうか。


メカス: 私は毎日カメラを回すからね。ただ、まったく計画がなかったといえば嘘になる。プロジェクトを遂行しなければいけなかったし、その時期には普段よりも多く撮影したことは確かだ。ただし計画したというよりは、自分を取り巻く環境に対してより多く反応したという方が近い。より意識が高まっていたということだ。そういう意味では日本の俳句の影響も多少あると言える。俳句は三行のなかに物事の瞬間を凝縮して切り取るという最もリアルな芸術形式だからね。俳句からはアーティストはそういう瞬間に対して意識を覚醒させないといけない、眠ってる暇なんてないんだということを学んだよ。


  ――過去に撮影した膨大な量のフッテージから作品をつくるのはどのような作業なのでしょう。編集にはかなりの時間をかけますか。


メカス: 気が狂いそうになるよ(笑)だがとても単純な話でもある。例えば、1960年代に私はさまざまなシチュエーションでアンディー・ウォーホルを長時間撮影した。だが、そのフッテージのことは忘れて長い間放ったらかしにしていた。そうしたらポンピドゥー・センターが最初の大きなウォーホルの回顧展をやるということなり、彼らが私に電話をかけてきて、ウォーホルのフッテージをお持ちでないでしょうかと聞いてきた。私はもちろん持っていると答え、これは撮りためていたフッテージをまとめるいい機会になるかもなと思った。そしたら彼らがそのための資金を提供しましょうと申し出てくれたんで引き受けた。それだけの話だ。*3ゼフィーロ・トルナーとジョージ・マチューナスのフッテージをまとめたのも同じような経緯からだ。*4今はパリのフッテージに取りかかってるところなんだ。私がパリで最初の展覧会をやったジュ・ドゥ・ポム国立ギャラリーが今度40周年を迎えるのでこの機会に何か作品をつくってくれないかと依頼してきたので、もちろん、と快諾したんだ。フッテージはたくさんあるしね。今は八時間にまで短縮したところで、これからなんとか四時間ほどの長さに収めるつもりだ。締め切りがあるというのもとてもいいことだ。そのおかげで仕事がはかどるということだってある。日記プロジェクトも挑戦しませんかともちかけられて始めたものだしね。


  ――それはどのような経緯で。


メカス: ヴィレッジ・ヴォイス誌でのコラムのときと同じようなものさ。あのときも、当時ヴィレッジ・ヴォイスでは誰も映画について書いているひとがいなかったので、エディターだったジェリー・トルマーに会ったときに、なんできみのとこの雑誌は映画について書かないんだと聞いたんだ。そしたら、うちには書く人間がいないんだが、どうだ、君が書いてみる気はあるかと聞かれたんで、もちろん、と答えた。そうやってあのコラムは始まったんだ。なぜ映画についてのコラムがないんだろうという不満から生まれたんだ。*5


  ――いま取りかかってらっしゃるパリの作品の四時間という長さには何か理由があるのでしょうか。


メカス: 観るひとを退屈させないようにね。作品を見せるということはピアノを弾くようなものだから、あまりずるずると演奏しては観客を退屈させてしまう。だから作品の構造を明確にするための編集がまだ必要ということだ。私は観客を退屈させるのは好まない。


  ――ただ長さだけが退屈さを決定するわけではありませんよね。例えばルイ・マルのインドについてのドキュメンタリーなんか・・・


メカス: もちろん。私の『As I was Moving Ahead Occasionally I Saw Brief Glimpses of Beauty』 (2000)は五時間の作品だし、私のエジプトについてのビデオは八時間にもなる。いま私が取りかかっている建築家のレイモンド・アブラハムについてのビデオはそれこそ16時間ほどの、上映するには二日の作品になる予定だ。その作品はロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで上映される予定だがね。だからどのくらいの長さが適切かというのは場合による。それに誰かの人生の断片をちょこちょことつまみだして90分にまとめたような伝記を私は信頼しないんだ。私のエイブラハムの作品では、観客は彼の家族のスライド写真を見、彼がしゃべり、彼の建築に関する講義を聴きながら、エイブラハムという人物が何者だったのかということをゆっくりと、二日かけて、まるでセミナーに参加したかのように理解するんだ。こうした持続した時間(duration of time)という概念はとても重要なものだ。例えば今夜上映された『Unsere Afrikareise』についても、ピーター・クーベルカ本人からそのことについて何度も聞いたんだが、あの作品に登場するたいしたアクションが起こらず、ほとんど無音で、まるでポーズして時間が止まったかのような三つの空間――一度観ただけでは気づきにくいがね――というのは彼にとって必要不可欠なものなんだよ。


(後編へつづく)


(2011年4月8日。於ハイアット・ホテル。S.O and k)

*1:アルベルト・カヴァルカンティ(1897-1982)はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ出身の映像作家。

*2:インタビュー後、三上勝生氏によるブログ『記憶の彼方へ: Beyond Memories of Life』と判明。日記プロジェクトの索引については2008年1月1日のポスト「Index of 365 Films 2007 by Jonas Mekas, ver. 1」(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20080101/1199201811)を参照されたい。

*3:『Life of Warhol』:1990年にポンピドゥー・センターが行った回顧展のためにメカスが制作した16ミリ作品。上映時間15分。

*4:1992年に『ゼフィーロ・トルナー、あるいはジョージ・マチューナスの生活風景』Zefiro Torna or Scenes from the Life of George Maciunasとして発表された

*5:この経緯についてはヴィレッジ・ヴォイス誌での連載をまとめたメカスの著作であるMovie Journal: The Rise of a New American Cinema, 1959-1971(Collier Books, 1972)の序文にも詳しい。