Jazzmania (Robert Z. Leonard, 1923)

360|365 Film Festival(旧ハイフォールズ・フェスティバル)の一環としてサイレント映画『ジャズマニア』(1923)が上映された。サイレント期のスター女優メイ・マレーが主演するコメディ、1990年代後半にイタリアのコレクターであるロベルト・パルメ氏の所蔵が見つかるまで長らく「失われた映画」として日の目を見ることがなかった。パルメ・コレクションで見つかった唯一のナイトレート(可燃性)フィルムを今回イーストマン・ハウスが修復し、記念すべく上映にたどりついた。85年間見られることがなかった『ジャズマニア』、今回の上映には地元のジャズ・カルテットThe Djangoners によるスタンダード・ナンバーを伴奏してくれた。

この映画の日本語による紹介はほとんどされていないようなので、まずはストーリーの概要をしたい。バルカン半島にかくれた小国「ジャズマニア」。目ざといアメリカのビジネスマン以外にはまったく知られていない桃源郷である。ジャズマニアを統治するのは若く美しい女王のナイノン(マエ・マリー)。アールデコ調の玉座で無邪気にペットの虎と遊ぶナイノンは大臣たちの切迫した忠告にも無関心。ナイノンの従兄弟であるオットーは密かに「革命」に向けた準備を進め、ナイノンに自分との結婚か「革命」による政府転覆かの究極の選択を迫る。遠くニューヨークの新聞社の社長室。裕福な社長のどら息子サニーは、ジャズマニアの不穏な動きを耳にするなり自分を取材員として送り込むよう父親を説得してジャズマニアに向かう。「革命」の真っ只中に果敢にインタビューに挑むサニーだが、インタビューは即座に脱線し、下着姿(もちろん袖や裾の長いパジャマのようなものだが)のナイノンとダンスを始めてしまう。こうしたドタバタをへて、ナイノンはサニーと「いつも平和で楽しい国」であるアメリカへ亡命することに。

ナイノンの「天性のダンスの才能」(ジャズというよりはヴォードヴィルのショーダンスだが)は彼女をニューヨークでも一躍人気者に押し上げてしまう。ニューヨークではハンサムな恋人にも出会う彼女だが、身分を隠して亡命中であるため完全に心を許すことはできない。やがて忠誠な近衛兵により説得され、オットーから王冠を奪還すべくナイノン一行はジャズマニアに戻っていく。「革命」後の腐敗した政治に失望した民衆はナイノンを快く向かいいれ、アメリカに残してきた恋人も飛んで来て物語はハッピーエンドを迎える。エンディングのインタータイトルは「アメリカで得た知識を活かしてナイノンはジャズマニアを近代化した」と伝え、馬車や馬にとって変わって車が行き来するジャズマニアの一風景を映し出して映画は幕を閉じる。

1923年公開当事のニューヨークタイムズの映画紹介では、エンディングのインタータイトルに「ナイノンは所得税廃止とガソリンの値下げを敢行した」とあるように伝えている。今回修復されたプリントでは、所得税廃止は「革命」前の会話で出てくるだけで「アメリカで得た知識」のうちの一つとしては出てこない。何にしても今日の感覚では、作品中のあからさまなアメリカ賛美が果たして皮肉的だったのかどうかはわからない。この記事でもうひとつ興味深いのは『ジャズマニア』をやはりバルカン半島の戦争を舞台にしたジョージ・バーナード・ショーの戯曲『武器と人』や人気ファンタジー小説グロースターク』(ジョージ・バー・マッカッチョン著)と比較していることだ。すでに複数の映画になっていた『グロースターク』はともかくとして、『武器と人』との比較は意外な印象を受けるが、この映画はそれだけ人気があったのかもしれない。この匿名の記者は映画の台詞にたいしても好意的だ。スラングを熟知したライターにしか書けないものだと高い評価をしている。ちなみに英語圏以外でフィルムが見つかった場合はオリジナルの英語の台詞は別に探しあてなければならないのが通常だ。映画祭のホームページによると、パルメ氏のプリントはイタリア語であったため修復チームはオリジナルな英語の字幕を半ばあきらめていたとある。そんなときにSelznick School(イーストマン・ハウスの映画修復保存に特化した修士号およびディプロマ・プログラム)のDaniela Currò氏が偶然にもイタリアの国立フィルムミュージアム1920年代にイタリアで公開されたアメリカ映画のタイトルが集められているのを見つけたらしい。ナイノンの台詞に多数見られる複数形・単数形の誤用やAmericain (正しくはAmerican)やJeRR-ee(正しくはJerry)などの外国人訛りを茶化した綴りをライターの才能と評価するかどうかは別として、修復版でもオリジナルの台詞を見ることができるのは幸いだ。

『ジャズマニア』の製作はティファニー・ピクチャーズとなっている。若くからブロードウェイのショーで活躍したマレーは(有名なバラエティ・ショーであるヅーグフェルド・フォリーズのコーラス・ガールとして人気を博した)1921年には映画監督のジョン・スタールとともに独自の制作会社であるティファニー・ピクチャーズを立ち上げ(MGMの傘下に入る1924年までに)『ジャズマニア』を含む6作品を発表している。ティファニー・ピクチャーズは『ジャズマニア』で見られるような豪華なステージ・デザインや派手な衣装などが評判となった。ちなみに監督のロバート・レオナードは当時マレーの夫であった。(S.O 2011年5月1日上映)