Joan Crawford's Home Movies (circa 1939-1942)

先日上映されたジョーン・クロフォードのホーム・ムービーについて。

ジョーン・クロフォードのホーム・ムービーの発見は1997年に当時ジョージ・イーストマン・ハウス映画部門キュレーターであったパオロ・ケルキ・ウサイが受け取った一本の電話から始まる。電話の主はケイシー・ラロンド氏。ジョーン・クロフォードが1947年に養子に迎えた双子のうちのひとりであるキャシー・クロフォード(結婚後ラロンド性)の息子、つまりジョーンの孫にあたる人物である。彼がヴァージニア州にある大学院へ進学するため実家を離れることになり、荷物整理をしていた際、地下室にフィルム缶があるのを偶然見つけた。どうやら1977年に死去した祖母ジョーンの遺品であることはわかったが、彼はもちろん母のキャシーもそのフィルムを観たことがないと言う。ついては20年間眠っていたそのフィルムの中身を調べたいので協力してもらえないだろうか、というのが電話の用件だった。ウサイはフィルムの調査を快諾し、イーストマン・ハウスに郵送するよう伝えた。間もなくラロンド氏から送られてきたフィルム缶には1935年にコダックが発売を開始したアマチュア用フルカラーフィルムである16mmコダクローム・フィルム(サイレント)で撮影されたホーム・ムービー二時間半分が収められており、調査の結果、その多くが祖母ジョーンとその家族が被写体となったものであることがわかった。

フィルム・アーカイブがホーム・ムービーを収集することは少ない。ジョージ・イーストマン・ハウスでも創業者のジョージ・イーストマンや地元ロチェスターニューヨーク州などにかかわりのあるものでない限りホーム・ムービーが修復され、そのコレクションに加わることはなかなかないらしい。しかし、同じホーム・ムービーといえど、それがジョーン・クロフォードのものとなれば話は別である。2005年には全米映画保存基金(National Film Preservation Foundation)の助成を受け、ラロンド氏によって発見されたすべてのフィルムの修復が行われることになった。今回上映されたのは25分ほどのダイジェスト版で、これまでにもMoMAUCLA、大手映画チャンネルであるターナー・クラシック・ムービーが主催するTCM映画祭で上映されたとのこと。ホーム・ムービーの鑑賞においてはその中に映っている(今回のケースでいえばクロフォード以外の)人物の特定が難しいことが多いのだが、今回は幸運にも特別ゲストとして招かれたラロンド氏の解説つきで観ることができた。上映されたフッテージと彼の解説をここに紹介し、シェアすることで、将来、この映像がより広く公開されたときの鑑賞の助けとなればうれしい。

ラロンド氏の推測によればホーム・ムービーが撮影されたのは1939年から1942年にかけてであり、これをクロフォードのキャリアと照らし合わせてみると、彼女が1943年にワーナー・ブラザーズに移籍する前のMGMでの最後の数年間にあたる。この頃のクロフォードは、ギャランティは高いがかつてほど興行成績が振るわくなった女優として徐々にMGM幹部の信頼を失い、最終的には契約を途中で打ち切られる憂き目に遭っている。しかし、興行面以外に目を向ければ、そのキャリアの充実ぶりが直ちに窺い知れる。とりわけ、女優の魅力を引き出すことにかけては定評のあったジョージ・キューカー作品への出演がこの時期に集中していることは注目に値するだろう。それ以前にも、クレジットこそされていないもののキューカーが共同監督としてかかわった1935年の『男子牽制』No More Ladiesに主演していたクロフォードだが、この時期には1939年にノーマ・シアラーロザリンド・ラッセルらオール女性キャストが話題を呼んだ『女性たち』The Womenに出演したのを始め、翌40年にはフレドリック・マーチと共演したコメディSusan and God(筆者は未見)、そして41年には顔に負った火傷の痕に苦悩する女性の演技が当時の批評家の賞賛を呼んだ『女の顔』A Woman's Faceと連続して主演している。また、この少し前になるが、1937年には女性映画監督ドロシー・アーズナーの『花嫁は紅衣装』The Bride Wore Redにも主演していることと併せて考えると、ワーナーに移籍した後の1945年の作品『ミルドレッド・ピアース』で完成したとされる女性映画のキャンプ・アイコンというクロフォードのスター・イメージが、キューカーやアーズナーそしてふたりのクイア的感性とのコラボレーションを通して萌芽していたのがこの時期だとも言えるかもしれない。

肝心の中身はというと、まず始めに、クロフォードが当時の恋人であったチャールズ・マッケイブとアップ・ステイト・ニューヨークの湖やハドソン渓谷で休暇を過ごすフッテージが見せられる。マッケイブが長く狩猟クラブの会員であったため、クロフォードが彼とともに狩りを楽しむ様子を記録したフッテージも含まれており、『ミルドレッド・ピアース』や『大砂塵』といった映画の外でも彼女がショットガンを手にする姿に観客からほほえましいため息があがる。今回発見されたフィルムの主な撮影者であるマッケイブだが、クロフォードの華麗なる(?)スキャンダル史のなかでは目立たない存在である。ラロンド氏が発見したフィルム缶のいくつかには「チャールズと私」と記したテープが貼ってあったものの、生前のクロフォードが彼について語ることはなく、チャールズとは一体誰なのかを調べることからリサーチを始めたそうだ。その結果、唯一見つかった小さなゴシップ記事から、彼がチャールズ・マッケイブというデイリー・ミラー誌に勤める非常に裕福な人物であることがわかった。また彼には妻子がおり、クロフォードとは当時不倫関係にあった。彼の妻は最後まで離婚を承諾せず、クロフォードは彼との関係を終わらせた後、1942年月に俳優のフィリップ・テリーと三度目の結婚をしている。彼女がマッケイブについて語ることがなかったのもそうした事情によるのかもしれないが、フィルムを終生保管していたということは彼女にとって何か大事な意味があったのだろうかと想像させる。

戦前のマンハッタンを55ストリートの東側にあるビルの上階から、カメラをパンさせて、撮影した記録映像としても興味深いフッテージに続いて、当時クロフォードの唯一の養子であったクリスティーナがスクリーンに映し出される。マッケイブからもらったと思われるプレゼントにキスをしたり、屋上で裸で日光浴にいそしむクロフォードの周りでよちよち歩きをしたり、プールで母と水遊びをする様子が記録されている。クリスティーナを語る以上、彼女が巻き起こしたスキャンダルに触れておかなければならないだろう。母ジョーンの死後の1978年に、クリスティーナは遺産問題のもつれからMommie Dearestを出版し、その中でジョーンが幼児虐待をしていたことや彼女が人種差別主義者であったことを告発したのだ。セレブリティに関する暴露本のさきがけとなったこの本は、当時社会問題となっていた幼児虐待への関心とともに、大反響を巻き起こしフェイ・ダナウェイ主演で映画化もされた。ジョーンが母としてクリスティーナと幸せそうに過ごす様子を繰り返し見せ、クリスティーナの誕生日会に黒人の女の子が招かれていることを繰り返し強調するのには、Mommie Dearestでイメージが傷ついてしまった祖母の名誉回復を果たしたいというラロンド氏の願いがあるのだろう。もちろん、見せられたフッテージの選択には多少恣意的なものを感じたし、それ以外には何が映っているのかというゴシップ心が湧かないわけではない。スター・イメージを巡る論争が、今もこうして、草の根レベルで、続いていることは興味深いけれども、このホーム・ムービーに事の真相を明らかにすることを期待しても仕様がない。そこにはただ薄いメイクアップで、自然光に照らされ、映画の中のように口をぐっと真一文字に結んだりせず、リラックスした様子でカメラに収まるジョーン・クロフォードとその周辺のひとたちの日常の断片がコダクローム独特の深い発色とともに記録されているだけだ。

その他にも、クロフォードがMGMでの彼女のボディ・ダブルであり友人でもあったシルヴィア・ラマーと、自宅の裏庭で、同じ衣装を着てカメラの前でおどける様子や、クロフォードがフィリップ・テリーとの結婚後に養子に迎えたものの、生みの母からの要求で返還せざるを得なかった「最初のクリストファー」と彼女が呼ぶ男の子の赤ちゃんに彼女がミルクをあげる様子を記録したフッテージが上映された。ハリウッド・スターのプライベートへの好奇心をそそるだけでなく、当時の出演シーンのすべてが白黒映像であったクロフォードをフルカラーで観ることができる点でも興味深い。また当時発売間もなかった1930年代後半のコダクローム・フィルムの映像を確かめることのできる貴重な資料だとも言えるだろう。(k)

(2011年5月10日上映)

Jazzmania (Robert Z. Leonard, 1923)

360|365 Film Festival(旧ハイフォールズ・フェスティバル)の一環としてサイレント映画『ジャズマニア』(1923)が上映された。サイレント期のスター女優メイ・マレーが主演するコメディ、1990年代後半にイタリアのコレクターであるロベルト・パルメ氏の所蔵が見つかるまで長らく「失われた映画」として日の目を見ることがなかった。パルメ・コレクションで見つかった唯一のナイトレート(可燃性)フィルムを今回イーストマン・ハウスが修復し、記念すべく上映にたどりついた。85年間見られることがなかった『ジャズマニア』、今回の上映には地元のジャズ・カルテットThe Djangoners によるスタンダード・ナンバーを伴奏してくれた。

この映画の日本語による紹介はほとんどされていないようなので、まずはストーリーの概要をしたい。バルカン半島にかくれた小国「ジャズマニア」。目ざといアメリカのビジネスマン以外にはまったく知られていない桃源郷である。ジャズマニアを統治するのは若く美しい女王のナイノン(マエ・マリー)。アールデコ調の玉座で無邪気にペットの虎と遊ぶナイノンは大臣たちの切迫した忠告にも無関心。ナイノンの従兄弟であるオットーは密かに「革命」に向けた準備を進め、ナイノンに自分との結婚か「革命」による政府転覆かの究極の選択を迫る。遠くニューヨークの新聞社の社長室。裕福な社長のどら息子サニーは、ジャズマニアの不穏な動きを耳にするなり自分を取材員として送り込むよう父親を説得してジャズマニアに向かう。「革命」の真っ只中に果敢にインタビューに挑むサニーだが、インタビューは即座に脱線し、下着姿(もちろん袖や裾の長いパジャマのようなものだが)のナイノンとダンスを始めてしまう。こうしたドタバタをへて、ナイノンはサニーと「いつも平和で楽しい国」であるアメリカへ亡命することに。

ナイノンの「天性のダンスの才能」(ジャズというよりはヴォードヴィルのショーダンスだが)は彼女をニューヨークでも一躍人気者に押し上げてしまう。ニューヨークではハンサムな恋人にも出会う彼女だが、身分を隠して亡命中であるため完全に心を許すことはできない。やがて忠誠な近衛兵により説得され、オットーから王冠を奪還すべくナイノン一行はジャズマニアに戻っていく。「革命」後の腐敗した政治に失望した民衆はナイノンを快く向かいいれ、アメリカに残してきた恋人も飛んで来て物語はハッピーエンドを迎える。エンディングのインタータイトルは「アメリカで得た知識を活かしてナイノンはジャズマニアを近代化した」と伝え、馬車や馬にとって変わって車が行き来するジャズマニアの一風景を映し出して映画は幕を閉じる。

1923年公開当事のニューヨークタイムズの映画紹介では、エンディングのインタータイトルに「ナイノンは所得税廃止とガソリンの値下げを敢行した」とあるように伝えている。今回修復されたプリントでは、所得税廃止は「革命」前の会話で出てくるだけで「アメリカで得た知識」のうちの一つとしては出てこない。何にしても今日の感覚では、作品中のあからさまなアメリカ賛美が果たして皮肉的だったのかどうかはわからない。この記事でもうひとつ興味深いのは『ジャズマニア』をやはりバルカン半島の戦争を舞台にしたジョージ・バーナード・ショーの戯曲『武器と人』や人気ファンタジー小説グロースターク』(ジョージ・バー・マッカッチョン著)と比較していることだ。すでに複数の映画になっていた『グロースターク』はともかくとして、『武器と人』との比較は意外な印象を受けるが、この映画はそれだけ人気があったのかもしれない。この匿名の記者は映画の台詞にたいしても好意的だ。スラングを熟知したライターにしか書けないものだと高い評価をしている。ちなみに英語圏以外でフィルムが見つかった場合はオリジナルの英語の台詞は別に探しあてなければならないのが通常だ。映画祭のホームページによると、パルメ氏のプリントはイタリア語であったため修復チームはオリジナルな英語の字幕を半ばあきらめていたとある。そんなときにSelznick School(イーストマン・ハウスの映画修復保存に特化した修士号およびディプロマ・プログラム)のDaniela Currò氏が偶然にもイタリアの国立フィルムミュージアム1920年代にイタリアで公開されたアメリカ映画のタイトルが集められているのを見つけたらしい。ナイノンの台詞に多数見られる複数形・単数形の誤用やAmericain (正しくはAmerican)やJeRR-ee(正しくはJerry)などの外国人訛りを茶化した綴りをライターの才能と評価するかどうかは別として、修復版でもオリジナルの台詞を見ることができるのは幸いだ。

『ジャズマニア』の製作はティファニー・ピクチャーズとなっている。若くからブロードウェイのショーで活躍したマレーは(有名なバラエティ・ショーであるヅーグフェルド・フォリーズのコーラス・ガールとして人気を博した)1921年には映画監督のジョン・スタールとともに独自の制作会社であるティファニー・ピクチャーズを立ち上げ(MGMの傘下に入る1924年までに)『ジャズマニア』を含む6作品を発表している。ティファニー・ピクチャーズは『ジャズマニア』で見られるような豪華なステージ・デザインや派手な衣装などが評判となった。ちなみに監督のロバート・レオナードは当時マレーの夫であった。(S.O 2011年5月1日上映)

「特別企画」 ジョナス・メカス特集 パート4 「インタビュー (後編)」

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引き続き4月上旬にイーストマン・ハウスを訪れたジョナス・メカスへのインタビューの様子をお届けします。

ワインも3杯目にさしかかるころ、イーストマン・スクール・オブ・ミュージックでドイツ映画を研究するラインヒルド・スタイングローバーも登場。メカスのフランクなスタイルもあり、話はさまざまな方面に広がっていった。

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  ――映画製作をはじめたきっかけについて聞かせてください。


メカス: ニューヨークに着いて二週間たらずでカメラを買ったんだ。アメリカに来たのは1949年のこと。移民としてではなく「避難民」(displaced persons)としてだ。2,000人近くの避難民とアメリカ海軍の船でニューヨークに着いた。*1


  ――そしてすぐ映画を作った?


メカス: わたしは「映画」というものは『Guns of the Trees』という一本しか作っていないんだ。*2つまりシナリオから始まる「映画」というものは一本だけで、残りの作品は「映画」としては撮っていない。いわゆる「映画」は、計画から始まり、シナリオを書いて、順序をたててつくるものだからだ。わたしはそうしたことはしない。第一作目でそうしたことをしたのは、やはり映画製作者(filmmaker)になりたかったからだけど、それっきりきっぱり辞めた。あとはずっとフィルマー(filmer)として映像をつくってきた。


  ――『The Brig』も映画ではない?


メカス: 『The Brig』は劇を観て、これはシネマ・ベリテ風に記録しようとおもった。わたしのコメントを加えるつもりでね。*3あの劇に対するわたしのリアクションがある。そのリアクションが作品になる。じつはわたしはあの劇を破壊してしまった!彼らは何遍もリハーサルを積み重ね、緻密に計画された動きをしているのに、そこにわたしが入っていって真ん中にカメラを据える。彼らの動きを完全に妨害してしまう。でもそのおかげであの作品は成り立った。何十回も積み重ねてきた動きをわたしが壊してしまったので、かれらは突如リアルに行動せざるを得なかった。


  ――あなた自身は、いわゆる「映画」をつくる 映画監督ではなくフィルマー(filmer)だと言われました。その観点からダイアリー・フィルム(diary film)という名称は気に入っていますか?


メカス: たとえば「文学」(literature)のなかでダイアリーあるいはエッセーという形式の起源を求めれば、聖アウグスティヌスの『告白』、ルソーの『告白』、あるいはジョルジョ・ヴァサーリの芸術家『列伝』に行きつくかもしれない。また航海の過程を毎日記録する船記というジャンルもある。「文学」ひとつとってもさまざまな形態があるが、映画でもそれは同様だ。ダイアリーという形式はダンスにもあるし、音楽にもある。ボブ・ディランにハーモニカを教えたメル・ライマンはほかのミュージシャンとの交流を細かくメモをするのが好きだった。わたしも自分を取り囲む世界を叙述している。


  ――あなたは音楽に詳しいだけでなく、演奏もされます。*4ずばりあなたにとって音楽とは?


メカス: 子供のころから音楽は生活の一部だった。わたしは農家で育ったが、歌は農家では大切なものだった。父は民芸楽器も作っていた。


  ――今晩の授賞式ではフィリップ・グラスからの祝電が届いていました。グラスはアンソロジーでNYデビューをしたと聞いていますが、ジョン・ケージとの付き合いもあったのですか?


メカス: ケージとの付き合いはちょっと変わってるんだ。アンソロジーが入っている建物を購入したとき、保存状況が劣悪だったため修復資金集めをするはめになった。1981年のことだ。有名作家にアートを提供してもらうというアイディアがあって、ヨーゼフ・ボイスにあたってみた。彼は提供したい作品はあるが、それはすでにケージにプレゼントしてしまったと言う。ケージから取り返してくれたらサインをするというので、ケージにかけあったというわけだ...今の話はうそで、本当はもっと前からの付き合いだ。わたしがニューヨーク市から建物を購入する権利を争っているときに多大な力を貸してくれた。


  ――ケージの有名な『4分33秒』で音楽と時間に関して探究しました。さきほど、映画と時間についての話がでましたが、最近は美術館で映画が上映されることが多いですね。見るひとによっては数秒だけ見て次の展示に移るというようなこともあります。


メカス: ギャラリーで上映する映画は映画館の映画とはまったくべつものだ。インターネット配信やDVDの映像も同様だ。インスタレーションでは、例えば14から16の映像を同時に上映するということを試みる。ギャラリーに来るひとたちはそれらを観てそれぞれ自分自身でエディティングできるからだ。どのスクリーンを最初に見るか。数秒たったら、次のスクリーンに目を移してまた数秒間。そしてまた次のスクリーンへ。こうした状況は一つのスクリーンの映像を集中して観る映画館での状況とはまったく違う。最初から視聴者自身がエディティングをするものと踏まえて計画する必要がある。彼らが編集する材料をあたえるのがアーティストの仕事だ。


  ――映画と時間といえば、ホリス・フランプトンの『Les』があります。時間に関する究極の映画と自称した、いわゆる一秒映画です。タイトルは写真家のレス・クリムスへのオマージュですね。


メカス: 一秒映画なら、フラクサスのディック・ヒギンズが1962年にすでに撮っている。フランプトンも知っていたはずだ。ヒギンズの映画はプレイボーイマガジンのヒュー・ヘフナーがフィルムメーカーズ・コープから借りていき、その一秒をまるまる切り取ってもどしてきた。射精の場面を写した『Plump』という作品だ。それをプレイボーイが盗んだ!


  ――一秒映画のなかのひとコマが抜けて戻ってきたのですか?


メカス: いや、一秒映画のその一秒間がまるまる抜けていた。


  ――皮肉にもヒュー・ヘフナーは、イーストマン・ハウス、フィルム保存プログラムのパトロンです。


メカス: 彼はヒギンズ早期の傑作を壊してしまった!


  ――フラクサスのメンバーとは個人的な付き合いはありましたか?


メカス: (苦笑い)腐れ縁というべきか、意外にも深い付き合いだね。ジョージ・マチューナスは17歳のときから知っていた。まだフラクサスなんてなかったころだ。彼のデザイナーとしての初めての仕事は『フィルム・カルチャー』*5で使った何かだったと思う。


  ――ところでベルリンにフラクサス・ミュージアムができたのをご存知ですか?


メカス: 本当かい?いったい何が展示されているんだろう。大概のものはMoMAのシルバーマン・コレクション(Gilbert and Lila Silverman Collection)にあるし、ほかにはシュツットガルドに大きなフラクサス・コレクションがあるはずだ。シルバーマンはおもしろい人で、デトロイトの銀行家だったんだけどフラクサスの作品というよりもマチューナス自身にとても関心をもってコレクションを築いたんだ。彼にしてみればマチューナスこそフラクサスそのものだったみたいだ。わたしもフラクサスの作品はマチューナスから受け継いだ2,800点を持っているが、それらはリトアニアにある。

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深夜になるまでインタビューに付き合ってくれたお礼を言うと、「もうあがりかい?いつものベッドタイムは朝3時なんだけどな」と元気に答えてくれた。バーは12時に閉まるので、と同席したアンソニー・バノンが物足りなそうなメカスをなだめると、軽快にダンス・ステップを踏んでまだ宵の口だとアピール。偉大な芸術家兼オーガナイザーの根幹にある力強いエネルギーを感じさせられた。

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(終)


(2011年4月8日。於ハイアット・ホテル。S.O and k)

*1:1944年ジョナスと弟アドルファスともにナチス・ドイツで強制労働キャンプに収容される。終戦とともに解放されるがソ連下のリトアニアには戻れず、1949年に国連難民機関を通してニューヨークに移住する。詳しくはこちら

*2:1961年発表『Guns of the Trees』はロバート・フランク/アルフレッド・レスリーの『Pull My Daisy』に代表されるビート・ジェネレーション映画に感化された長編映画http://www.sensesofcinema.com/2005/great-directors/mekas/

*3:1963年に「The Living Theater」で上演された海兵隊拘置所に関する実験劇を1964年に映画化。ベネチア映画際ドキュメンタリー部門グランド・プライズ受賞

*4:今回のインタビューでも同席した皆に親切に彼のバンドJonas Mekas & FriendsのCD/DVDを配っていた。メカスの音楽活動に関する詳細はこちら

*5:『フィルム・カルチャー』は1954年にメカス兄弟が創刊した実験映画やインディペンデント映画に関する雑誌。

「特別企画」 ジョナス・メカス特集 パート4 「インタビュー (前編)」

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 ジョナス・メカスにはロチェスター滞在の機会にインタビューしたいことを前もって申し入れ、前向きな返事を得てはいたものの、彼のあまりに過密な滞在スケジュールのためにインタビューのための時間は確保できていなかった。もし滞在中空き時間ができればそのうちの少しだけでもわたしたちのインタビューのために割いてくれるとうれしい、そのときにはどのタイミングでもかまわないので連絡してほしい、という旨のメールを送ってはいたものの、彼からは「着いてから決めることにするよ」という連絡とともに「即興よ永遠なれ!(Long live improvisation!)」というメッセージが送られてきていただけで、細かいことは何も決まっていなかった。

 思えば、当初上映予定になかった『WTC』が4月8日の夜に急きょ上映されることになり、関係者とのディナーを終えたメカスがQ&Aに登場するということがアナウンスされたあたりから彼の「即興」は始まっていたのかもしれない。Q&A終了後、わたしたちはメカスに歩み寄り、インタビューの依頼をしたこと者であることを告げた。彼は「ああ、覚えてるよ」と言う。願わくば滞在中どこかのタイミングで会って話を聞くことはできないだろうかとわたしたちが聞くと、じゃあこのあとはどうだろうと彼は答え、私は夜型の人間だから時間が遅くなるのは気にしないよと付け加えた。わたしたちは、それまでの杞憂がうそのように、物事があまりにスムーズに決まってしまったことに多少当惑しつつ(即興よ永遠なれ!)、もちろんそれで構わないと了解した。イーストマン・ハウスのディレクターであるアンソニー・バノンの提案でわたしたちはダウンタウンにあるハイアットホテルのバーで待ち合わせることになり、そこで話を聞くことができた。

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  ――今回の旅はイーストマン・ハウスでの授賞式のためだけですか。それとも上映ツアーか何かの一環ですか。


メカス: いや、ここだけだ。私は創作者(maker)で何かを作っているのが好きだ。旅をするのは好きじゃない。本当に必要なときにしか旅はしないんだ。それに今回はアンソニーイーストマンハウスのひとたちをがっかりさせたくないと思ってね。


  ――ロチェスターまで来てくれてうれしいです。


メカス: それに休息が必要だった。ここ数カ月すごく忙しかったからね、少し休みたかったんだ。


  ――わたしたちは映画制作ではありませんが大学で映画について学ぶ学生です。あなたもクーパーユニオンで教えられていたんですよね。


メカス:そうだ。一学期だけだけどね。それに教えていたという感覚はないんだ。わたしが関心があるテーマに生徒たちといっしょに取り組んだというだけだ。学んでいたのは私の方だとも言えるね。学校で教えたのは計四回だ。ひとつはMIT(マサチューセッツ工科大学)で日記映画の形式を発展させることを試みた。別の学期にNYU(ニューヨーク大学)でやったのは拡張映画(expanded cinema)の可能性を探求するというもので、ニュー・スクールではサンフランシスコとニューヨークの、つまり西海岸と東海岸アヴァンギャルド映画を比較した。


  ――聞くだけでとてもおもしろそうです。


メカス: そしてクーパーユニオンでは形式と内容が技術ととりもつ関係、とくに新しい映像技術との関係について取り組んだ。とてもいい体験だったよ。


  ――その他にも、NYUとハーヴァード大学ニューヨーク州立大学バッファロー校を映画制作者者が巡回して講義を持つシリーズに参加されたこともありましたよね。


メカス: そういえばそういうのもあった。ただしあれはスポンサーつきのツアーに組み込まれただけだがね。全部で20回くらいのセッションをやって、基本的にはわたしひとりでやったが、他の映像作家を連れて行くこともあったよ。


  ――あなたは、以前別のインタビューで、アヴァンギャルド映画制作が陥りつつあるアカデミシズム化について話されていました。自身が実際に学校で教えられたときに、そういうことへの危機感のようなものが頭にあったんでしょうか。


メカス: いや、それとは関係なく、自分がやったことはいたってシンプルなことだ。まず、アンソロジー・フィルム・アーカイブが持っているD.W.グリフィスのカメラマンだったビリー・ビッツァーが彼の息子を被写体にカメラのテストをしているフッテージ――これはもっとも最初期のホーム・ムービーといえるものだが――を生徒に見せる。つぎに、これもアンソロジーが持ってるものだが、そのほとんどが静止画から構成されたオスカー・フィッシンガーの『ミュンヘン―ベルリン徒歩紀行』を見せ、それから徐々に1960年代や70年代のより複雑な映画を見せていくんだ。映画を見せ、それについて議論する。いたってシンプルでアカデミーとは関係のないことだよ。とても実際的な映画づくりのことだ。


  ――つまり、生徒をトレーニングし、映画制作者として育てるという意図はあまりなかったと。


メカス: ない。そんなつもりはないよ。意見を交換して私自身の進展具合を確かめる、そして生徒たちにも彼らの進展具合を確かめる機会になればいいと思っただけだ。


≪ここでアンソニー・バノンが飲み物の申し出をしてくれる。礼をのべ、銘柄は何でもかまわないのでなにか軽めのビールをいただけるとうれしい、とお願いする。メカスは「すごく軽いビールがいいのならステラだな」といいながらわたしたちが到着する前に注文していた白ワインを飲んでいる。≫


  ――好きな飲み物はありますか。


メカス: これ一つだけというのはないな。酒に限らず、何かを一つに絞るということはしないんだ。


  ――あなたらしいですね。


メカス: ビール、ウィスキー、ワインがあればたいていはワインを飲むね。そのあとにウィスキーを飲むこともある。ウィスキーはスコッチに限る。


  ――スコッチがお好きなんですね。


メカス: ああ。それか、フンダドール。ヘミングウェイが好きだったブランデーだ。


  ――ヘミングウェイといえば、あなたは文筆家、詩人でもあります。


メカス: 私の詩集はこれまでに三冊日本語に翻訳されている。日本にも全部で六回ほど行った。端から端まで、沖縄から北海道まで旅行したよ。友だちもたくさんいる。ほとんどは詩人かフィルムメイカーだが。詩集以外も含めると全部で六冊か。新刊がもうすぐ、たぶんひと月かふた月以内に出るはずだ。私の序文が届くのを待っているんだ。ロチェスターへ来る列車の中で書き終えるつもりだったんだが、いかんせん混んでてね、書くなんてどころじゃなかったよ。


  ――帰りの列車ではぜひ。


メカス: ああ、そうなればいい。


  ――今夜上映された『WTC』を制作されたきっかけがあれば簡単に教えていただけますか。


メカス: あるとき自分の撮ってきたフィルムが色あせてきていることに気がついた。何か作品にしてしまわなければと思い立ち、よく見てみると多くのフィルムにワールド・トレード・センターが何気なく写っている。それが始まりだ。


  ――いまとは違うニューヨークの雰囲気が伝わってくるすばらしい映画でした。今夜、偶然にも、最初に上映されたのがルディ・バークハートの『The Climate of New York』で、最後にあなたの『WTC』が上映されました。あなたの新作がニューヨークを舞台にした都市映画の系譜に連なるものであることを感じさせます。


メカス: アルベルト・カヴァルカンティも付け加えたい。彼は『伯林 大都会交響楽』のウォルター・ルットマンと同時代の南米出身の映像作家*1で、彼はパリを撮った。『Rien Que les Heures』。15分ほどの作品で、ルットマンとは趣がだいぶ異なるがね。


  ――ピアノの音楽もとても印象的でした。


メカス: あれは友人の若いアーティストが即興で弾いたものを録音したんだ。アンソロジーでチャリティ・コンサートをやったときにフィリップ・グラスがピアノを持ち込んだんだが、そのあとしばらく引き取りにこなかったからずっと置きっぱなしになっていたんだ。あの即興はそのピアノで弾いたものだ。ただ、今夜の上映はちょっとだけ音が大きかったがね。


  ――たしかに。とはいえとても感動的なスコアでした。『WTC』の音楽が決まっていく経緯をお聞きすると、あなたが常にアーティストや詩人、音楽家など幅広いひとたちとの交流があることを改めて感じさせられます。


メカス: 交流といってもおおげさなものではないんだ。肩肘を張らずに、気楽に集まっていたというだけのことだ。


≪ここで注文したビールが届く。乾杯をして話を続ける。≫


  ――さて、周知のとおり、あなたはアンソロジー・フィルム・アーカイヴスとフィルムメーカーズ・コープの設立者であります。今夜の上映後にも、自身が過去に撮影したフィルムを発掘することについてお話になってました。あなたは新旧を問わずあらゆるメディアに肯定的だとは思いますが、映像というものの現在、たとえばフィルムによるイメージやビデオのそれなどについてもうすこしお話いただけますか。


メカス: ビデオやインターネット配信が登場し、多様なアウトプットができるようになったことはすべてポジティブですばらしいことだと思う。ただそれに関しては言うべきことが山のようにありすぎる。あまりに多様でひとくくりにしゃべることはできない。あまりに多い。


≪上映に来ていた男がやってきて、自己紹介を始める。昔ニューヨークに住んでいたことがあり、その頃アンソロジーアーカイブスへよく通ったのだと言う。ウェイトレスが追加の注文を取りに来る。メカスは同じワインをもう一杯もらおうと言い、男のいささか長めの自己紹介に耳を傾けている。≫


  ――アンソロジーはフィルム・アーカイブでもあり、上映施設でもあります。あなたは現在どの程度上映作品の選定に関わっていますか。


メカス: 毎日日替わりで六本から七本上映している。劇場は二つだ。アンソロジーでの上映作品の選定はチーム作業でやっている。フィルムメーカーズ・シネマテークのときはわりと自分ひとりでやっていたが、アンソロジーができてからはそういうこともなくなった。メインプログラムの「エッセンシャル・シネマ・セレクション」の選定には五人が携わっていて、誰かひとりがやっているということはないんだ。また、アンソロジーでは多様なシリーズの企画のために国籍も多様なさまざまなキュレーターたちと仕事をしてきたし、さらに細部を詰めて企画としてまとめる係のひともいる。


  ――アンソロジーは最初ジョセフ・パップのパブリック・シアターのところにあったんですよね。


メカス: そうだ。そこがアンソロジーが1970年代にオープンしたところだ。自分たちのためのスペースを確保して、そこに特別な、本当に特別な、劇場を造ったんだ。ピーター・クーベルカがデザインしてね。それから四年後に建物が壊されることになり、他へ移らなければいけなくなった。その上映スペースはいまはもう現存していないんだ。アンソロジーはそのあとソーホーのウースター通り80番地へ移った。


  ――クーベルカと言えば、彼もウィーンのオーストリア映画博物館で映画上映のキュレーションをしていましたね。それぞれアメリカとヨーロッパでキュレーションをするという体験にはどんな違いが・・・


≪とても聞きたかった質問だがここでラインヒルド・スタイングローヴァーが乱入して中断される。彼女はイーストマン音楽学校でドイツ映画について研究しており、サイレント映画のための伴奏の授業も受け持ったことがあるそうだ。今夜の主役であるメカスの周りが静まることはなさそうだ。≫
  

  ――2007年にインターネット上で発表された日記映画についてお伺いします。


メカス: あれは映画じゃない。プロジェクトだ。私のウェブサイトで全て見ることができるよ。365日分すべて。一日も欠かさずアップロードし続けた。あんなプロジェクトは二度とやらないよ!あれは思った以上に大変だった。最初は何かの冗談かと思っていたんだが「いえ、毎日5分から10分のクリップをアップロードしてください」というもんだからね・・・。それにインターネット上で発表するとなるとカメラから撮影したフッテージを取り出せばおしまいというわけにもいかない。オンライン用のファイルにするまでの過程がいくつもあるしね。とても困難な挑戦だった。でもやりきったよ!


  ――その一年間というのは他の年と比べてニューヨークにいることが多かったんでしょうか。


メカス: とんでもない。旅にも出たよ。その一年間だけでおそらく十回は出たはずだ。私と息子を含めてわれわれはチームで――自分たちのことを「ギャング」と呼んでるんだがね――旅に出るんだ。旅に出たときもホテルの部屋で作業して、なんとか間に合わせてたよ。日付が変わるまでには新しいフッテージが必ずサイト上にアップロードされてたんだ。


  ――連続上映という点でいえばホリス・フランプトンも『Magellan』で毎日上映するというプロジェクトに取り組んだことがありました。ロバート・ロンゴにもフランプトンの作品から名をとった「マゼラン・シリーズ」という毎日ドローイングを発表するというプロジェクトがありました。


メカス: ああ、いまでは似たようなプロジェクトがたくさんある。フランプトンのは知ってるよ。ただしあれは長時間撮影したものを分割して上映するというものだから同じものとはいえないし、それに方法としてはずっと簡単さ!私のプロジェクトでは、開始して一週間ほどで日本も含めていろんなところからたくさんの反響があった。私と同じように毎日映画をつくることを始めた人たちもいた。私のライバルになったというわけだ。日本には私のサイトのすべてのフッテージの索引を作り、すべての音声を文字に起こして、さらに誰かがフッテージの中で言及されればその人物の情報をつけるということまでやったひとがいるんだ。いまでもまだやってくれているはずだがね、サイト上のすべての情報を細かく追ってくれるなんてすばらしいことだよ。たしかどこかの大学で教えてるはずだが、私のファンなんだ。*2


  ――毎日の撮影に臨まれるにあたってテーマを決めるなんてことはありましたか。


メカス: 明日何が起こるかなんてどうして分かるというんだい!


  ――つまり即興だったと。


メカス: それも違う。人生というのは・・・


≪話が核心へ及ぼうとしたところへウェイトレスが追加の注文をとりにテーブルへやってくる。メカスは「そうだな、ビールに移ろうか」と言いながら揃えているビールの種類を訊ね、しばらく悩んだあと、やはり今日はワインでいくことにしようと言って同じ白ワインのグラス注文する。≫


メカス: 人生は即興ではないんだ。私は明日に向けて備えるということは決してしない。明日はいずれやってきて、明日の私というものをかたち作る。それについて何か計画しても仕様がないことだ。私がカメラを回しているとき、なぜ自分がカメラのスイッチを入れたのかなんてわかりっこないんだよ。つまりはこういうことだ。一日というのは24時間だ。一時間は60分で、一分は60秒。ある年のある日に、私はたった15秒しか撮影しなかったとしよう。なぜ24時間撮影しなかったのか。なぜその15秒間だったのか。そんなことを問うなんて考えてみれば馬鹿げてるがね!撮影したということはなにか理由があったんだろう。しかし、なぜ私がその15秒間を撮影して残りの23時間と59分と45秒でなかったのかなんてことはわからないんだよ。だから私がなぜ映画を作るのかということには答えはない。私はただ反応しているだけだ。いまもここにカメラはあるが撮影はしていない。それは私を撮影に駆り立てる「何か」がこの場にはないからだ。しかし、その「何か」は起こるかもしれない。起こり得るんだ。


  ――そのような心境は2007年の日記プロジェクトのときにも変わりませんでしたか。つまり、カメラを回さなければというような意識が生まれることはなかったのでしょうか。


メカス: 私は毎日カメラを回すからね。ただ、まったく計画がなかったといえば嘘になる。プロジェクトを遂行しなければいけなかったし、その時期には普段よりも多く撮影したことは確かだ。ただし計画したというよりは、自分を取り巻く環境に対してより多く反応したという方が近い。より意識が高まっていたということだ。そういう意味では日本の俳句の影響も多少あると言える。俳句は三行のなかに物事の瞬間を凝縮して切り取るという最もリアルな芸術形式だからね。俳句からはアーティストはそういう瞬間に対して意識を覚醒させないといけない、眠ってる暇なんてないんだということを学んだよ。


  ――過去に撮影した膨大な量のフッテージから作品をつくるのはどのような作業なのでしょう。編集にはかなりの時間をかけますか。


メカス: 気が狂いそうになるよ(笑)だがとても単純な話でもある。例えば、1960年代に私はさまざまなシチュエーションでアンディー・ウォーホルを長時間撮影した。だが、そのフッテージのことは忘れて長い間放ったらかしにしていた。そうしたらポンピドゥー・センターが最初の大きなウォーホルの回顧展をやるということなり、彼らが私に電話をかけてきて、ウォーホルのフッテージをお持ちでないでしょうかと聞いてきた。私はもちろん持っていると答え、これは撮りためていたフッテージをまとめるいい機会になるかもなと思った。そしたら彼らがそのための資金を提供しましょうと申し出てくれたんで引き受けた。それだけの話だ。*3ゼフィーロ・トルナーとジョージ・マチューナスのフッテージをまとめたのも同じような経緯からだ。*4今はパリのフッテージに取りかかってるところなんだ。私がパリで最初の展覧会をやったジュ・ドゥ・ポム国立ギャラリーが今度40周年を迎えるのでこの機会に何か作品をつくってくれないかと依頼してきたので、もちろん、と快諾したんだ。フッテージはたくさんあるしね。今は八時間にまで短縮したところで、これからなんとか四時間ほどの長さに収めるつもりだ。締め切りがあるというのもとてもいいことだ。そのおかげで仕事がはかどるということだってある。日記プロジェクトも挑戦しませんかともちかけられて始めたものだしね。


  ――それはどのような経緯で。


メカス: ヴィレッジ・ヴォイス誌でのコラムのときと同じようなものさ。あのときも、当時ヴィレッジ・ヴォイスでは誰も映画について書いているひとがいなかったので、エディターだったジェリー・トルマーに会ったときに、なんできみのとこの雑誌は映画について書かないんだと聞いたんだ。そしたら、うちには書く人間がいないんだが、どうだ、君が書いてみる気はあるかと聞かれたんで、もちろん、と答えた。そうやってあのコラムは始まったんだ。なぜ映画についてのコラムがないんだろうという不満から生まれたんだ。*5


  ――いま取りかかってらっしゃるパリの作品の四時間という長さには何か理由があるのでしょうか。


メカス: 観るひとを退屈させないようにね。作品を見せるということはピアノを弾くようなものだから、あまりずるずると演奏しては観客を退屈させてしまう。だから作品の構造を明確にするための編集がまだ必要ということだ。私は観客を退屈させるのは好まない。


  ――ただ長さだけが退屈さを決定するわけではありませんよね。例えばルイ・マルのインドについてのドキュメンタリーなんか・・・


メカス: もちろん。私の『As I was Moving Ahead Occasionally I Saw Brief Glimpses of Beauty』 (2000)は五時間の作品だし、私のエジプトについてのビデオは八時間にもなる。いま私が取りかかっている建築家のレイモンド・アブラハムについてのビデオはそれこそ16時間ほどの、上映するには二日の作品になる予定だ。その作品はロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで上映される予定だがね。だからどのくらいの長さが適切かというのは場合による。それに誰かの人生の断片をちょこちょことつまみだして90分にまとめたような伝記を私は信頼しないんだ。私のエイブラハムの作品では、観客は彼の家族のスライド写真を見、彼がしゃべり、彼の建築に関する講義を聴きながら、エイブラハムという人物が何者だったのかということをゆっくりと、二日かけて、まるでセミナーに参加したかのように理解するんだ。こうした持続した時間(duration of time)という概念はとても重要なものだ。例えば今夜上映された『Unsere Afrikareise』についても、ピーター・クーベルカ本人からそのことについて何度も聞いたんだが、あの作品に登場するたいしたアクションが起こらず、ほとんど無音で、まるでポーズして時間が止まったかのような三つの空間――一度観ただけでは気づきにくいがね――というのは彼にとって必要不可欠なものなんだよ。


(後編へつづく)


(2011年4月8日。於ハイアット・ホテル。S.O and k)

*1:アルベルト・カヴァルカンティ(1897-1982)はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ出身の映像作家。

*2:インタビュー後、三上勝生氏によるブログ『記憶の彼方へ: Beyond Memories of Life』と判明。日記プロジェクトの索引については2008年1月1日のポスト「Index of 365 Films 2007 by Jonas Mekas, ver. 1」(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20080101/1199201811)を参照されたい。

*3:『Life of Warhol』:1990年にポンピドゥー・センターが行った回顧展のためにメカスが制作した16ミリ作品。上映時間15分。

*4:1992年に『ゼフィーロ・トルナー、あるいはジョージ・マチューナスの生活風景』Zefiro Torna or Scenes from the Life of George Maciunasとして発表された

*5:この経緯についてはヴィレッジ・ヴォイス誌での連載をまとめたメカスの著作であるMovie Journal: The Rise of a New American Cinema, 1959-1971(Collier Books, 1972)の序文にも詳しい。

「特別企画」 ジョナス・メカス特集 パート3 「フィリップ・グラスからの手紙」

自身のマニフェストを読み上げたジョナス・メカスの受賞スピーチは、彼が優れたアジテーターであり、オーガナイザーでもあり、そして、やはり、偉大な詩人であることを改めて感じさせてくれるすばらしいものだった。プレゼンターとして授賞式に出席した映画監督であり批評家でもあるピーター・ボグダノヴィッチが「ジョナスは偉大なencourager(励まして背中を押してくれるひと)なんだ」と言っていたが、彼の力強く美しい生の言葉に触れると、「場」をつくりだす名人であるメカスのもとにアーティストたちが自然と集まってくることが身体のレベルで納得できる。もちろんメカス本人はそんな過剰な賞賛にも「だれもやるひとがいなかったから私がやっただけさ」とあっさりと答えるだけなのだが。

作曲家であるフィリップ・グラスもそんなアーティストのうちのひとりだ。今回の栄誉賞受賞イベントのために特別ゲストとしてここロチェスターへかけつける予定だったが、3・11地震の被災地支援のためにニューヨークシティのジャパン・ソサエティで行われたチャリティ・コンサートに出演することになり、やむなく出席をとりやめることになったそうだ。(ちなみに、このジャパン・ソサエティでのコンサートにはグラスの他にもローリー・アンダーソンルー・リード坂本龍一など多くのミュージシャンが参加し、計12時間にもおよぶ大規模なものとなったという。)もちろん、長年日本で暮らしていた、そしてまたいつか暮らすことになるだろう者としては被災地支援のためにコンサートへの参加を決めたグラスの選択を尊重し、また感謝したいと思う。それと同時に、今回の災害が、国を超え遠く離れたこの場所で、間違いなく素晴らしいものになったであろうふたりの邂逅(といってもふたりともニューヨーカーで頻繁に会ってはいるのだろうけど)の機会を奪う不幸な出来事でもあったことを思い知る。

残念ながら出席は叶わなかったが、式の冒頭でグラスからの祝辞が代読されたのでここに紹介したい。簡潔でありながら、その中からも若きグラスがメカスから受けた物心両面のサポートに対する感謝と親愛が伝わってくる素敵なメッセージになっています。

ジョナスは、1950年代から60年代にかけて、ニューヨークのダウンタウンにおけるアート・音楽・映画・ダンス界の立役者のひとりでした。ウースター通り80番地にあった彼のシネマテークは、私を含めた当時のフィルムメーカー、作曲家、演劇関係者たちにとって、親身になってくれる幸せな集いの場となっていました。私はそこで演劇界の革新者として有名なリチャード・フォアマンに初めて会い、1968年秋の私にとって初めてのニューヨークでのコンサートが行われたのもそのシネマテークでした。のちにジョナスが二番街とセカンド・ストリートの交差点にあるアンソロジー・フィルム・アーカイヴに献身することになった後も、当時私とあと数人のメンバーで始めたばかりの音楽フェスティバルであるミュージック・アット・アンソロジー(MATA)のための場所を提供してくれました。それからMATAはややアップタウン寄りの西側、チェルシー地区に移りつつ、わずか10年の間にニューヨークにおける最新の音楽シーンの中心となりました。MATAの最初の数シーズンがジョナスとアンソロジーアーカイブによって主催されことをわたしたちは忘れることはないでしょう。つまり私が言いたいのは、ジョナスはわたしたちの人生にとって、そしてアメリカ人の人生にとって、常に、替えがきかないと言えるほど重要な存在であったということです。ジョナスに心からの感謝をこめて。彼がわれわれと共に生き長らえ、その愛と喜びをもたらさんことを。

フィリップ・グラス


Jonas was one of the founders of the downtown art, music, film, dance world in NYC in the 1950s into the 60s. His cinematheque at 80 Wooster street was a willing and happy host to the filmmakers, the composers and theater people including myself in those years. I first met Richard Foreman, the noted theater innovator there at Jonas' place. My first New York concert took place there in the fall of 1968. Later after he agreed to establish himself at the Anthology Film Archive at the 2nd Avenue and 2nd St, he provided a home for the fledgling matter of music festival that's Music at Anthology, MATA, founded by myself and several others. Then in just ten years, MATA has become the mainstay of New York's new and newer music scene, having moved slightly uptown to the west side, the Chelsea area. Our first several seasons were hosted by Jonas and Anthology and we won't forget that. All this is to say that Jonas was in continuous to be an essential if not irreplaceable part of our lives and the lives of Americans. Many many thanks to Jonas. Long may he live among us, bringing with him his love and good cheer.

Philip Glass

なお、訳出にあたって翻訳者である高久聡明さんにアドバイスをいただきました。ここに感謝します。(k)

(2011年4月9日)

「特別企画」 ジョナス・メカス特集  パート2 「ミニ・マニフェスト」

ジョナス・メカス―George Eastman Honorary Scholar for artistic achievementー受賞スピーチの一部。少しまじめな話になる、と前置きをしたうえで三項目からなる「ミニ・マニフェスト」を読み上げた。以下、内容の要約。

1)8mm、16mm、35mmのフィルムで撮影された作品は、それぞれ8mm、16mm、35mmで上映する。文化施設を自称するようなところは16mmを35mmで上映したりしてはいけない。(ウォーホルのスクリーン・テストをビデオで上映しているMoMAを名指しで批判)

2)どの国もフィルム作品を製作、上映し続けることができる(フィルム製造、現像、上映)施設を作る。

3)フィルムの廃退は自然の掟だと認めたうえで過去の遺産としての価値を見出す人間性を自覚する。

ちなみにこれまでの受賞者には、映画監督のジョン・フランケンハイマーやジェームス・アイボリー、そして俳優のデニス・ホッパーやジェフ・ブリッジを含む。(S.O)
(2011年4月9日)

「特別企画」 ジョナス・メカス特集  パート1 『WTC』(2010)

自称旅嫌い、アバンギャルド映画の「ゴッドファーザー」と呼ばれる89歳の巨匠。イーストマン・ハウスの栄誉賞受賞のため本拠地マンハッタンよりハドソン川沿いを電車ではるばる下ってきたジョナス・メカス。パート1の今回は彼の最新作『WTC』(2010)について。パート2以降はメカスとのインタビューの内容をアップしていく。

メカスの経歴を(無理を承知で)要約。
1922年、リトアニアの農家に生まれる。
1944年にはナチスドイツの労働キャンプに収容され、終戦後も1949年の渡米までdisplaced persons campですごす。ニューヨークに着くなりすぐBolex 16mmカメラを購入。
1958年Village Voice紙でMovie Journalと題した映画批評をはじめ、
1964年には、Stan Brakhageを含む同志と前衛映画の製作から上映までを補助する相互扶助組織Filmmakers’ Co-operativeを結成。その後、Brakhageとやはり前衛作家のP. Adam Sitney, Peter Kubelkaを巻き込んでThe Anthology Film Archiveを結成。前衛映画の修復・保存・上映に力を入れる。
アンディ・ウォーホルをはじめ様々な映像作家を紹介してきた功績が知られるが、メカス自身も精力的に映画製作を続け、特有のダイアリー・フィルムという形式を打ち出した。最近は自らのウェブサイトに定期的にビデオ・ダイアリーをアップロード。2007年には365日欠かさず毎日一本のショートを作成・公開している。

さて、今回上映の『WTC』のタイトルはもちろん9・11で倒壊したWorld Trade Centerの通称。
1970年代から2000年までに彼が撮った膨大な映像のなかからWTCが写っているものを拾って編集した作品。ウォーホルやリチャード・セラなど芸術家仲間の「スナップショット」。その背景に写るWTC。カトリックのパレードの背景にあるWTC。大雪の街中でスキーをしたり、路肩でスイカを食べたり、家族や友達との普通の生活を記録した映像。そのなかに何気なく「存在」するWTC。
この作品は決してWTCが写ったものを無機質に並べた構造主義的なものではない。
WTCのショットの前後の何気ない生活の一場面を叙述的に連ねたビジュアル・ポエトリーだ。
詩的な印象は、メランコリックな即興のピアノによって際立たせられる。

「モニュメント」でも「象徴」でもなく単に存在するWTC。
何気ない「存在」とは、メカスの映像哲学とも共通するテーマかもしれない。
上映後に行われたQ&Aでは、所蔵していたフィルムの色が変化してきたことに対する危機感からこの作品が生まれたこと、フィルムを調べるうちに何気なく存在するWTCに気づいたこと、そして印象的なピアノは、フィリップ・グラスがAnthologyで演奏した際に自ら持ち込んだものを友人のアーティストが何気なく弾いたものであることなどを陽気に語った。グラスが置きっぱなしにしたピアノ。それに惹きつけられるように即興をはじめたメカスの若い友人August。そして、こうした歴史を思いつくままに紹介するメカスの即興。「最近の前衛映画の代表的作家は?」という質問には厳しく「そういうリストはつくれない」ことを強調し、つねにオープンに先入観を持たずに現在を観ることへのこだわりを見せた。
デジタル化が進む映像業界についても、「It’s all great!」と、60年代の前衛精神を体現するような肯定的なメッセージで答えた。(S.O)
(2011年4月8日上映)